2007(平成19)年1月『方法としての親鸞』(「親鸞」研究会編 永田文昌堂刊)所収

 『方法としての親鸞/仏教』(「親鸞」研究会編 永田文昌堂刊)出版に際し、寄稿依頼されて書いたものです。 





 僕の尊敬する映画監督森達也が、雑誌『QuickJapan』vol,59にて、「今、最も注目するクリエーター」として、マンガ家浦沢直樹を絶賛していた。僕も常々浦沢直樹はチェックしている。『MASTERキートン』と『MONSTER』は全巻持ってるし、『PLUTO』も豪華版を購入している。『20世紀少年―本格科学冒険漫画』が掲載されている『ビックコミックスピリッツ』は毎週読んでるし、これもいずれは揃えるつもりだ。
 尊敬している人と共感できるものがあるのは、なんとなくうれしい。我ながら「いい歳して何思ってんだ」という気もするのだが(しかも相手はいいオジサンだし)、まあ本音だから仕方がない。
 その記事がきっかけで、以前から気になっていた『ANOTHER ONSTER』(ヴェルナー・ヴェーバー+浦沢直樹共著)を読み始めた。

  「1995年から2002年にかけて『ビッグコミックオリジナル』誌上で連載され大
   反響をよんだ『MONSTER』に関するノンフィクション「風」読みものであ
   る。2000年のある医院での惨殺事件を発端に、ヴェルナー・ヴェーバーという
   ジャーナリストがヨハン・リーベルト事件の謎を「取材」する、という体裁
   で、現地の写真や資料を差しはさみながら進行していく。もちろん答えは明白
   であるのだが、最後まで本書がフィクションなのかノンフィクションなのか、
   はっきりと記述されることはない。(後略)」

というのがAmazon.co.jp掲載の商品説明なのだが、いやいやこれが何とも面白い。思い切りはまってしまい、結局『MONSTER』全18巻を読み直すはめになってしまった。
 あらためて『MONSTER』を読むと、森達也の指摘と重なる部分を多く感じる。怪物と恐れられたヨハンは、主体を奪い、恐怖を操り、懐疑を育てていくことで、人の心を操作する。これは森が常々指摘する、主語を喪失し、思考停止していく僕たちの社会へのメタファー(暗喩)だと言える。ラストのルーエンハイムの惨劇は、その象徴だ。恐怖に駆られ、他者を信じられなくなった住民たちは、与えられた銃を手に殺し合いを始める。まさしく、生活保守主義に染められた僕たちの行く末を暗示しているようだ。その銃声が飛び交う嵐の街に、グリマーの「自分が何をやっているのか、自分の心で考えるんだ」という言葉が象徴的に響く。そしてストーリーは閉じても、それぞれの葛藤は終わることはない―。
 ただ、今回二作品を通して読んでの一番の発見は、主人公テンマの恩師でもあり、精神分析医ドクター・ライヒワインの言葉だった。この言葉を噛みしめながら、僕はずっと気にかかっていたことを思い出していた。


 2004年9月14日、池田小児童殺傷事件という惨劇を起こした、宅間守被告の死刑が執行された。ついに遺族への謝罪の言葉を一言も発することなく。事件発生から三年余り、判決確定からわずか一年足らずの異例の早さだった。大量殺人に飛躍する理由を、彼は「人生の幕引きをする時の道連れが欲しかったから」と語ったそうだが、その人生の幕引きを国が手助けすることになったとは、何とも皮肉なものである。まさに彼の思惑通りになってしまった。
 しかし、これで終わったのだろうか。本当にこの事件は終わりなのだろうか。このことに関して、『群像』2004年12月号に、作家雨宮処凛と佐木隆三の興味深い対談が掲載されている。

 まずは雨宮処凛の紹介を。
 元イジメられっ子で家出少女、元ビジュアル系追っかけにして、自殺未遂常習者。1996年に民族主義に覚醒。女闘士として活動家に。ミニスカ右翼≠フ異名を取り、「維新赤誠塾」「大日本テロル」のバンド活動を行うが、「自分の問題から逃げるために、思想に依存している」ことに気づき、「いろんなことを、とにかく自分の頭で考えよう」と右翼団体をやめる。その後執筆業に専念。著書に『ともだち刑』『すごい生き方』等多数。常に若者の抱える「生きづらさ」と向き合いながら、戦争前のイラクで人間の盾になりそこねたり、引きこもり・リストカット・幻聴幻覚・過食症・脳性まひ・パニック障害などの「病気」体験発表&パフォーマンスイベント「こわれ者の祭典」の名誉会長に就任するなど、様々な方面で活躍。彼女の出演したドキュメンタリー映画『新しい神様』(なんと監督は『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?』を撮った土屋豊!)は必見だと思う。

 彼女はオウムの地下鉄サリン事件が起きたとき、
  「自分が自殺したくて、世界も滅びろと思っていたんで、
   /すごいカッコいい/オウムは私の代弁者だ」
と思っていたという。そして、
  「もし、今もキャバクラ嬢とか、フリーターで、貧乏でつらければ、宅間守の
   ファンクラブを絶対作っていたと思いますね。私の周りにも犯罪者を崇拝する
   人がすごく多くて/それを実際に行動に移す移さないはともかく、自分もまさ
   にそういう気持ちだったので、とにかく自分も死んでみんなを道連れにしよう
   という…。とにかく世の中腐っててみんな死ねっていう、ずっとそういう気持
   ちだったので。
    だから、いまだに宅間みたいなのはすごく共感しちゃう自分がいて、/こと
   しの二月、麻原の判決が出たときも、「尊師判決オフ」というオフ会があった
   んです/オウム信者じゃないんですけど、麻原が大好きという人がいて、「麻
   原さん」とか「尊師」とか呼ぶんです。その人も「宅間守さん」といって、ほ
   かの人はみんな呼び捨てでぼろくそにいうのに、犯罪者だけ「宮崎勤さん」と
   か、「宮崎先生」とか、そういうふうにいうんですね。」
だから、そんな彼らにとって、宅間の死刑執行は、
  「最後まで世の中を呪って、呪い尽くして死んでくれることによって、さらにカ
   リスマ性みたいなものが出た。あれで途中で謝ったり反省したら、一気に宅間
   嫌いになりますね、宅間信者は。だから、あれは一つの物語としては、信者に
   とっては完璧であったような。」

 …僕たちは、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。宅間を怪物のままに、死刑を執行してしまった。それは同時に彼を神聖化する儀式でもあり、新たな怪物を生み出す儀式であったのかもしれないのだ。事実、2004年11月、奈良市内で有山楓ちゃんを誘拐・殺害した罪に問われた小林薫被告は、「早く死刑判決を受け、第二の宮崎勤か宅間守として世間に名を残したい」と語ったという。

 この雨宮の言葉に対し、佐木隆三は『汚れた顔の天使』というアメリカ映画を紹介した。この映画は、1938年の作品。マイケル・カーティス監督、ジェームス・ギャグニーが主演のギャング映画だ。
 出所したギャングのロッキーは、町の不良少年のヒーローとなる。牧師として不良少年たちの更生に力を注いでいた彼の幼なじみのジェリーは、少年たちを危ぶんでいた。そんな時、裏切り者の悪徳弁護士を殺したロッキーは、逮捕され死刑宣告を受ける。嘲笑うかのように平然としている彼の姿に少年たちは一層感化されてしまうが、そんな彼等の未来を案じたジェリーはロッキーの元へ行き、ある頼みをする。

 いよいよ死刑当日。電気椅子に進んだロッキーは、それまでの態度とはうって変わって「おれは死にたくない」と泣き声を上げ始めた。ロッキーの最後を新聞記事で読んだ少年達は、落胆しロッキーを軽蔑しはじめる。本当のことを知っているのは、ジェリーとロッキーの2人だけだった。この作品、実話が元だともいわれている。

  「あれで途中で謝ったり反省したら、
   一気に宅間嫌いになりますね、宅間信者は。」
 雨宮の指摘した通り、私たちは、宅間を人間にしなくてはならなかったのだ。怪物のまま死なせてはならなかった。ANOTHER MONSTERを生み出さぬためにも。

 ドクター・ライヒワインは、こう語っている。
  「怪物・・・?怪物なんておらんよ。ヨハンは人間だった…。特にミュンヘン大
   学図書館を炎上させて以降は、彼は人間になるために生きていた…そう思う
   よ。少なくとも人を殺すことを何とも思わない人間を、総称して怪物≠ニ呼
   んでいる間は、われわれは殺人という行為をなくすことはできない。彼らを同
   じ人間と思い、見つめることだ。怪物と呼ばず、われわれと同じ、名前を持つ
   人間だと考えること…。それが、ヨハンが何であったかを理解する鍵なんで
   す。」(『ANOTHER MONSTER』)

 過ぎた時を引き戻すことはできない。たとえ過去に返ることができたとしても、宅間の心がそう簡単に変わるとも思えない。しかし、しかし・・・彼を怪物ではなく、一人の人間として見つめていくことは出来る。なぜ人間である彼が、そんなことをしてしまったのか。どんな環境が彼をそんな生き方に向かわせたのかと。それが私たちにできる、たったひとつの怪物退治の方法なのではないだろうか。

 はるか昔、釈尊在世の頃、父を殺し、母に刃を向けた男がいた。彼の名は阿闍世。しかし、釈尊は、
  「《阿闍世王》とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり。/すなはちこれ
   一切有為の衆生なり。/《阿闍世》とはすなはちこれ煩悩等を具足せるもの
   なり。/《阿闍世》とはすなはちこれ一切いまだ阿耨多羅三藐三菩提心を発
   せざるものなり。」
         (『顕浄土真実教行証文類 信巻』浄土真宗聖典註釈版 277頁)
と、彼に一切の生きとし生けるものの普遍性を見た。そして親鸞は、阿闍世だけではなく、
  「われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる」
                 (『観無量寿経』浄土真宗聖典註釈版 90頁)
と、自らが我が子へどんな仕打ちをしたかということにさえ気づかない母、韋提希をも含めて「権化の人」と仰ぐ。
 それは、どこまでも怪物にはしない態度である。特別な怪物どころか、そこに自己の姿を見ていく姿勢でもある。「あんなヤツは、人間じゃない。」という視点から、「人間とは、何と恐ろしいことをしでかすのか。そして、私もまた、その人間なのだ。」という視点への転換が、ここにある。

 そして、何よりも…彼らが救われていく姿に、自らの救いの姿を重ねていく歩みでもある。■