2011(平成23)年4月「福岡教区門徒推進員連絡協議会」会報紙『めざめ』

 「福岡教区門徒推進員連絡協議会」会報紙『めざめ』に掲載されたもの。2010年8月の門徒推進員全員研修会に出講したときの内容を、かなり簡単にまとめたものです。



あなたが≪前提≫にしているものは?

 お医者さんから「あと1ケ月しか生きられません」と宣告されたら、あなたはどうしますか?
 昨年、製薬会社・協和発酵キリンが、「“いのちの大切さ”に関する意識調査」を20代〜60代の男女1000人を対象に、インターネット上で行いました。その中で「あと1ヶ月で人生を終えるとしたらしたいこと」という質問があったのですが、皆さんはどう答えられますか?そして、何が1位だと思いますか?最後だからと、めいっぱい自分が楽しむための時間にする意見が多いかと思いきや、何と1位は・・・・「親孝行」、そして2位は「お世話になった人に恩返しをする」だったそうです。3位は「世界中を旅行」、4位は「食べたかったものを食べる」ですが、5位は「疎遠になった友人に会う」6位は「社会貢献活動をする」。この答えを聞いて、私はちょっと感動してしまいました。日頃は、「明日があるさ」という≪前提≫で生きているのですが、死を突き付けられることで初めて、人生にとって一番大切なことは何なのかということを考えさせられるのでしょう。

 考えてみれば、意識しているかどうかは別にして、私たちはいろんなことを≪前提≫として生きています。そして、その≪前提≫が変わると世界は変わります。変わると言っても、見え方が変わるということです。「明日があるさ」という≪前提≫では輝いて見えていたことが、「あと1ケ月しか生きられない」という≪前提≫では色褪せて見えることがあるでしょう。逆に、気にも留めなかったことに、輝きを見出すことがあるのかもしれません。≪前提≫が変われば、ものの見方、考え方、生き方までも大きく変わるのです。

 与えられているものを「当たり前」だと受け止める生き方と、「有り難い」ことだと受け止める生き方は、当然違います。
 インターネットの世界やテレビ討論会で主張される「お前は間違っている。私の見方は正しい。」という態度と、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ」という態度では、当然違うでしょう。
「死んだら終わりだ」「死んだらゴミになる」という生き方と、「お浄土に生まれて仏に成る身とさせていただいた」と味わいながらの生き方では、やはり違います。
 ≪前提≫が変われば、ものの見方、考え方、生き方までも大きく変わるのです。私たちはどんな≪前提≫のもとに、ものを考え、そして生きているのでしょうか。


 ≪前提≫にしているのは、誰の願い?

 ある真宗のお坊さんが百日間の寮生活を終えられました。二人部屋で百日間の寮生活です。気の合う二人だと楽しい時間でしょうが、人間ですから合う、合わないというものがありますね。気の合わない人と百日間同じ部屋で生活することを考えると、ゾッとします。実はその方、残念なことに気が合わない方と一緒になっちゃったんです。本当につらかったようです。まあ、相手側も同じような気持ちだったことでしょうが。その方はこう言ったそうです。

「あんな奴とだけは、一緒にお浄土に往きたくない」

 気持ちはわからなくはありませんよね。私たちも人間ですから、愚痴も出るし、人の悪口を言います。でもこの言葉を聞いて、私はある先輩の言葉を思い出しました。私の先輩も、愚痴や人の悪口を言うのですが、最後にいつもこう付け加えるのです。

「あ〜ぁ。あんな奴でも、一緒にお浄土に往かなくてはならんのやなあ。」

 よく似た言葉です。でも、この二つの言葉は全く違います。「一緒に往きたくない」という場合には、阿弥陀如来の願いよりも、自分の思いを優先しています。でも、「一緒に往かなくてはならんのやなぁ」と言う場合には、自分の思いよりも阿弥陀如来の願いが優先されているのです。
 私たちは人間ですから愚痴も出ますし、争いもします。そして自分の思いを満たすためには、阿弥陀様まで利用しかねないのが私たち人間なのだと教えられるのです。人ごとではありません。私もそんな人間の一人であることを≪前提≫にしなかったら、阿弥陀如来の名の下に、平気で人を傷つけ、蔑み、そして自らを貶めながら、気付くこともないのでしょう。


 私たちは、何を≪前提≫にして生きているのでしょうか。「阿弥陀如来の願い」を前提だなどと言いながら、実は「自分の思い」を≪前提≫にして、生きているのかもしれません。しかし、そんな愚かな人間であるという≪前提≫のもとに、阿弥陀如来は願いを立てられていたのです。だからこそ、お念仏称えながら、私にかけられている願いを≪前提≫に、わが身を振り返ることが大切なのではないでしょうか。そう考えてみると、自分にとって気に食わない人も、阿弥陀如来から願われた仲間に見えませんか?
 自分が何を≪前提≫にして生きているのかを、確認してみませんか。世界が大きく変わって見えるはずです。その時、何を願うべきか、何を厭うべきかも明らかになるのでしょう。私たちの歩みは、私たちの生きているここ≠ゥらしか、始まらないのです。

 とはいっても、目先のことに流されて見失うことばかり。だからこそ、お念仏の側にこの身を置くことが大切なのだと教えられるのです。■