2011(平成23)年3月 

 極楽寺だよりに掲載しようと書きましたが、発行時期を考えるとタイムリーとはいえなかったので、ボツにしたものです。
  



 東北地方太平洋沖地震では、多くの人々のいのちが失われました。そして、今でも苦しんでおられる方がたくさんおられます。しかし、そんな中でも災害発生時には、ほとんどの方が礼儀正しく、周りの人を思いやり助け合って、行動されました。その姿は海外にも伝えられ、中国、アメリカをはじめたくさんの人たちが、感動し「日本はすごい」「日本の文化は素晴らしい」と賞賛されたそうです。私たちは、先輩方が作り上げてきたこの大切な文化を、守り伝えていかなくてはなりません。

 さて、では私たちはどうすればいいのでしょうか。時間の経過と共に、少しは落ち着いてきた状況の今とは、事情が違うかもしれませんが、自らも阪神淡路大震災で被災者であった、内田樹先生が、三月十三日付のブログに災害発生時の際の《ふるまい》について掲載されましたので、抜粋してご紹介します。

「未曾有の災害のときに」
十六年前の大震災を超える規模の国家的災厄となった。これからどうするのか。このような場合に「安全なところにいるもの」の基本的なふるまいかたについて自戒をこめて確認しておきたい。
(1)寛容
いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、こういう状況のときに/他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない。/自分自身の個人的な不満や攻撃性をリリースすることは、被災者の苦しみを自己利益のために利用していることに他ならない。自制して欲しい。
(2)臨機応変
平時のルールと、非常時のルールは変わって当然である。/こういうときこそルールの「弾力的運用」ということに配慮したい。/十六年前の震災のとき、/ガソリンストーブ用の燃料を買い求めてレジに立っていたとき、「屋根が落ちて雨漏りがする」というのでブルーシートを買いに来た女性がいた。店員は私の燃料代は定価で徴収したが、彼女には無料でブルーシートを手渡し「困ったときはお互いさま」と言った。彼のふるまいは「臨機応変」のすぐれた実例だろうと思う。
(3)専門家への委託
オールジャパンでの支援というのは、/これを政治的理念の実現や市場での取引の具に供してはならないという考え方のことである。災害への対応は何よりも専門家に委託すべきことがらであり、いかなる「政治的正しさ」とも取引上の利得ともかわりを持つべきではない。私たちは私たちが委託した専門家の指示に従って、整然とふるまうべきだろう。
以上三点、「寛容」、「臨機応変」、「専門家への委託」を、被災の現場から遠く離れているものとして心がけたいと思っている。これが、被災者に対して確実かつすみやかな支援が届くために有用かつ必須のことと私は信じている。かつて被災者であったときに私はそう感じた。(『内田樹の研究室』より)



 テレビでは、長い行列に並びながらも、「東北の人のことを考えたら、並ぶくらいは大したことがない」と寛容な態度でふるまう帰宅難民の人々の姿に感動させられ、同時に専門的な知識もなく現場の人を責めたてるワイドショーのコメンテーターの言葉に、寂しい気持ちにさせられました。船頭が多くなるほど、現場は余計に混乱するばかり。一体何のための、「誰のため」のコメントなのでしょうか。「被災者のことを思って」という正義の姿をとりながら、もしかすると、番組や新聞作りのための行為になっているのかもしれません。自分では、一生懸命に尽くしているつもりが、いつの間にかおかしな方向に進んでしまうことは、私たちの日常生活でもよくあることです。人事にはできません。

 しかし、石原慎太郎東京都知事の発言には、驚かされました。「被災された方には、非常に耳触りに聞こえるかもしれませんが」という言葉は添えながらも、「津波は天罰だ」という発言をされたのです。論旨としては「我欲を追い求め、ポピュリズムに走る日本人は、この災害を反省のよすがにすべきである。そうしなければ犠牲者は浮かばれない。」ということのようです。確かに、この災害を機縁に自らを振り返り、学ぶことは大切です。しかし、身内を亡くされた方に対して「あなたの大切な人は、天罰が下って命を落としたんだ」という表現は、耳触りどころではないと思うのは、私だけでしょうか(都知事にしても、どんな論旨であれ「裕次郎さんの死は、天罰だ」という表現をされたら、憤慨されるのではないでしょうか。これは、本当に失礼を通りこしています)。

 何より、自分だけは正しい場所に身を置いて、「みんな反省すべきである」といった態度で自らの政治的正しさを主張するのであるのならば、それは内田先生が指摘されるように「被災者の苦しみを自己利益のために利用している」ことに他なりません。最も慎むべき態度だと思います。
 とはいえ、私がここで石原批判のために被災者の苦しみを利用している図式になっては、同じこと。注意しなくてはなりませんが。

 「迷」という字の「米」の部分は、四方八方どちらに進んでいいのかわからない、方向を見失った姿を表す言葉です。私たちは、今こそ、自分の《ふるまい》が「誰のため」のものなのか、その方向を確認する作業が必要ではないでしょうか。自分を振り返ることもなく正義を主張する態度こそ、まさしく「迷い」の姿だと教えられるのです。私はその確認を、阿弥陀如来の光に照らされる中で、見つめていきたいと思います。