2015(平成27)年7月

 近頃、責任ある立場になったことで、いろんなことを考えさせられています。そんな中で、とても大切なことを教えて下さる言葉に出遇いました。自分がそうあってはならないと、自戒を込めて書きました。






 

私が常々尊敬しその著書を愛読している、思想家であり武道家の内田樹先生が「国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請」に対して、大学人として反対しておられます。その理由がとても新鮮で、人間の事実に根ざしているように感じられるので、ご紹介いたします。
  内田先生は、法律を作ることで現代の若者たちに欠落している公共心を再建することなどできないと言われます。なぜなら、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものだから。つまり、大人たちが壊してきたものを、法律を作っただけでどうにかしようというのは、どだい無理なことだと。確かに、若者たちが学ぶのは先人の後ろ姿です。自分を振り返ることもなく、法律によって規制し若者に強要しても、伝わるはずがありません。
 そして何より、この法律を作ることで、大きなデメリットが生まれることを危惧しておられるのです。

 ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。/
 いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。/
 小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。
 すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」

 私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
 その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。
 現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。(内田樹の研究室 2015年5月28日「国旗国歌について」)


 ちなみに、この文章。16年前の1999年に「国旗国歌法案」が国会で採択された時の文章を、改めて掲載されたものなのですが、リアリティーのある話だとうなずけてしまうのが悲しい状況だと思いませんか。これは「消費者」という大義名分を掲げて、先生や店員さんをいたぶるクレーマーの態度にも通じるところがあるようです。いや、自らがそんなふるまいをしてはいないかと振り返ることが、大切だと教えられるのです。

 仏教では、「愛」を執着心の一つだとして否定します。人は「愛」で自らを縛り、他人を縛る。一方、キリスト教では「愛」を「人を思いやる」「大切にする」という意味で使われますが、他の人と共に幸福になるという姿勢が根底にあります。キリスト教の初期の宣教師は、「愛」を「ごたいせつ」と訳して伝えたそうですが、仏教ではこの姿勢を「慈悲」と言います。
 「国を愛する」という名のもとに、人をののしり、どなりつけ、切り捨てるのであれば、まさしくそれは執着の「愛」でしかないでしょう。

 ちなみに、「故郷を愛する人」と「国を愛する人」の違いをご存じでしょうか。内田先生によると「故郷を愛している」と宣言するのは難しいのですが、「国を愛している」と自称するのは簡単なのだそうです。
 「故郷」を愛するには、利害抜きで地域のために尽くし、人びとのためにと実績を積まなければ「何もしていないくせに、何が愛しているだ。」と言われるのが関の山。
 ところが、「私は国を愛している」と言うのはとても簡単なのです。自分の意に添わない人間を「あいつは非国民だ」と罵れば、それでOK。自分の日頃のふるまいを問われることもありません。とっても簡単で有効的で、とても卑劣なやり方だとは思いませんか?しかし、インターネットの世界では、そんな「愛国者」が幅を利かせ、彼らの支持を追い風にしている政治家もたくさんいます。この教訓のもとに、多くのこずるい若者が育っていくのでしょうか。

 私は、故郷である野波瀬を、三隅を、長門を、山口を、日本を、そして地球を大切にしたいと思っています。そしてできうるならば、胸を張って「故郷を愛している」と言えるようになれればとも、思います。ところがなにせ、仏法を聞かせていただく身に育てられたものですから、やればやるほど「胸を張って言えるようなことは、とてもできない」と、思い知らされています。でも同時に、そんな生き方に豊かさを感じてもいるところです。■