2017(平成29)年2月 
 
 「最近、ほえてませんね」という指摘を受けて、久しぶりにほえてみました。
 映画『この世界の片隅に』を観て感動!まさに、名作!傑作です!今の時代にこそ必要なものが、ここにある!と思って書きました。 
 










 「私たちは、許されている。
      代わりに病んでいる人たちから許されて生きている。
         罪なことですね。」(石牟礼道子)


  昨年見た映画は二本だけ。一本は、大評判となりCMにも使われました『シンゴジラ』。そしてもう一本は、キネマ旬報の日本映画ベストテンで、アニメ映画としては『となりのトトロ』以来28年ぶりの1位を受賞した『この世界の片隅に』です。
 『シンゴジラ』も凄かったのですが、『この世界の片隅に』は衝撃でした。まさに名作、いや傑作と言い切りたい。とても大切な時間を過ごさせてもらいました。
 太平洋戦争末期の広島・呉を舞台にしたこの作品は、「反戦」「平和」という言葉では語り尽くせないほどの、豊饒なメッセージに満ちています。
 クスクス微笑み、ハハハと笑い、ホロリと涙がこぼれ、最後には号泣状態。余韻の中で、しばらく立ち上がることができないほど。また、主人公すずを演じたのん(能年玲奈)の声と、コトリンゴの音楽がピッタリ。ハーモニーのように響き合い、この作品に奥行きを与えておりました。

 ※ 余談ですが、以前後輩の住職が『お寺でLIVE』というイベントを企
   画し、コトリンゴさんを招いたことがありました。
   実は私、その前座(?)で法話をさせていただいたのです。
   だから、思い入れもひとしおなのです。

            

 さて、『シンゴジラ』におけるゴジラは、メタファー(隠喩)だと言われます。観る側がゴジラに様々なもの(震災、原発、戦争等)を重ね合わせることで、それぞれ違った受け止め方が生まれてくる。想像力が刺激される。そこが評価される大きな要素の一つなのでしょう。映画では、不条理に街を破壊するゴジラに、立ち向かい、闘いを挑む人々の姿が描かれています。

 仮に、≪不条理な現実≫に対する≪闘い≫が『シンゴジラ』のテーマだとすれば、『この世界の片隅に』という映画のテーマは≪不条理な現実の受容≫ではないかと私は思いました。
 主人公のすずは、受け容れます。不本意な結婚、いじわるな小姑、貧しい生活、そして戦争。小さないのちとの別れ。大好きな絵を描くための大切な右手との別れ。不条理な現実を受け容れ、それでも人生を大切なものにしようとする営み。ラストでは孤児を受け容れることで、また新たな喜びと出遇う姿が描かれます。
 この映画を私は、≪受容≫の物語だと思いたいのです。

 現代社会に生きる私たちにとって一番困難なことが、実は≪受容≫ではないでしょうか。吐き出すのはとても簡単です。クレームを、怒りを、愚痴を、吐き散らすことなら幾らでもできます。そのために最適な、ネットという道具も手に入れました。しかし、飲み込むのは大変です。不条理なことほど、黙って受け容れることはできません。
 私は、どんなことでも黙って飲み込むべきだと、言っているわけではありません。いじめでも、差別でも、黙って受け容れなさいと、強要するつもりはないのです。「受容の強要」ほど、傲慢で、残酷なことはないのですから。 
        
 ただ、『この世界の片隅に』を観ながら思い出したのが、冒頭の言葉。水俣と共に歩み続けられた詩人・作家の石牟礼道子さんの言葉です。
 石牟礼さんは、水俣病患者の杉本栄子さんと緒方正人さんの言葉に衝撃を受けたと言います。

「私たちはもうチッソを許します」
「いままで仇ばとらんばと思ってきたけれども、人を憎むということは、体にも心にもようない。私たちは助からない病人で、これまでいろいろいじわるをされたり、差別をされたり、さんざん辱められてきた。それで許しますというふうに考えれば、このうえ人を憎むという苦しみが少しでもとれるんじゃないか。それで全部引き受けます、私たちが。」
                     (『花の億土』石牟礼道子)

 凄い言葉ですよね。圧倒されます。私などには思いも及ばぬほどの苦悩を抱え、それでも受容していこうとする重み。そして同時に、この言葉の重さをそのままに受け止めた石牟礼さんの深さにまた、感動するのです。


 時と場所が違えば、私も同じように病んでいたのかもしれない。
 チッソの側で、水銀を流していたのかもしれない。
 どうして彼が死んで、私が生き残ったのか。
 どうして彼女は戦火に苦しみ、私は平和を謳歌しているのか。
 どうしてあの人が裁かれ、私はのうのうと生きているのか。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』)

 いつ、その立場が代わってもおかしくない。そこに石牟礼さんはおられるのでしょう。
 そこに在るということは、「私がその立場になった時に、私は許しの言葉が言えるのか。受け容れることができるのか。」という問いを抱えながら生きるということです。


「私たちは、許されている。 代わりに病んでいる人たちから許されて生きている。罪なことですね。」(石牟礼道子)


 私たちは、この世界に≪受容≫され、生かされている。
 つまりこの世界の片隅には、私たちがしたことを、したかもしれないことを、黙って受け容れて下さる方がある。
 それは、かつて生きていた人かもしれない。
 同時代に生きる人なのかもしれないし、これから生まれてくる人たちかもしれない。

 許されて生きていることは、とても罪深いことだと知る。それが、≪受容≫して下さる方々の人生の重さを感じることになるのでしょう。そこに痛みを感じるからこそ、私たちは人間でいられるのではないでしょうか。

「無慙愧は名づけて人とせず。」
「善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。」(『教行信証』)

 すずの笑顔が尊く見えるのは、そしてあの126分がかけがえのない時間に思えるのは、その≪受容≫の深さから生み出されたものだからと思うのです。
 この世界の片隅にある、深い笑顔に許されているからこそ、今ここに私は生かされている。見失っていた深くて重い事実を思い知らされた時間でした。

 では、私はそれをどう受け止めて、生きているのか。罪深さや痛みを感じているのか。吐き散らすだけの生き方をしてはいないか。大らかさを、朗らかさを、寛容さを失ってはいないか。
 私の生き方を根底から揺り動かす。そんな力を持った映画です。■