2017(平成29)年5月 

 
ほえました!MAXほえています!地方創生とは、単なる金儲けなのか?地方創生大臣の発言に憤りを感じつつ、「郷土を愛する」とはどういうことなのかを、地方に生きる者の実感として考えました。






 

辞任のきっかけとなった、今村復興大臣の「(東日本大震災は)東北で良かった」発言を始め、閣僚の不適切発言が続いています。4月16日には、山本幸三地方創生担当相の、「一番のがんは文化学芸員だ。観光マインドが全く無く、一掃しないとだめだ」発言があり波紋を呼びましたが、こちらは辞任まではいかないようです。しかし、私はこの発言にこそ、深い問題があると感じました。

 地方創生大臣は、「地方創生とは稼ぐこと」と定義した上で、「『文化財が大変なことになる』と全部、学芸員が反対する。観光立国として(日本が)生きていく時、そういう人たちのマインドを変えてもらわないと、うまくいかない」と述べられました。(その後、「全員クビは言い過ぎ」と発言を撤回。)講演後の取材VTRを見ると、「学芸員だけの文化財の形になっている」とも言われています。



 私は現在、長門市の村田清風記念館という施設で、実行委員として展示替えに携わっています。この記念館には学芸員がいないので、博物館の学芸員さんや大学の先生に、相談に乗ってもらい、ご指導を受けながらの日々を過ごしております(モチロン、無償。でも、スーパーハードな毎日です)。
 だからこそよくわかるのですが、学芸員の方々には、長い歴史を通して受け継がれた文化財を、きちんと受け止め、次の世代に渡していかねばならないという使命感があるのです。先輩たちがパスにパスを繋げて私のところにまで届けて下さった大切なものを、しっかり受け止め、次の世代にパスを渡す。自分の代の金儲けのために消費したり、乱雑に扱うわけにはいかないのだと。つまり「学芸員」とは、そこにいる一人を指す言葉ではありません。先人の敬意と、次の世代への責任が込められている「名」でもあるのです。
 それを「学芸員だけの文化財」という、いかにも私物化しているような言い方をされるとは・・・。厳しい言い方ではありますが、「そんな浅い理解しか、できないのか」、そして「目先の金儲けに走って、文化財を私物化するのは誰なのか」という憤りを感じます。



 第一、「地方創生とは稼ぐこと」と定義されてしまったら、身も蓋もありません。確かにお金は大切ですが、地方を支えているものは、お金では量れないことの方が多いのです。
 私は現在、文科省のすすめる「コミュニティ・スクール」(学校と保護者と地域住民が智恵を出し合い、子どもたちの成長を支えようとする制度)の委員になっています。(モチロン、無償。)でも、「金、金」と言い切られてしまったら、「結局俺たちは、タダで使える労働力と思われているのか。」と感じて、モチベーションがガックリと下がります。
  そして、様々な地域の役職を経験した中で実感するのは、「あの人は好きでやっているから」とか、「どうせ手当目当てだろう」という言葉が、人の心を折るということです。「私もしてもらってきたから」「長く、続けられてきたから」と、先輩方の歴史を尊重し引き受けた地域の仕事も、金目当てのように言われると「それなら、やらない」という思いにもなりますよ。世の中は、「好きか嫌いか」「損か得か」というマインドだけではありません。違うマインドもあるのです。
  「人間は、金で動く。」確かに、その一面はあるでしょう。しかし、「金さえ与えれば、人は動く」という見方は、あまりにも浅い考え方です。ちなみに、一面だけを切り取りそれを全てと思い込むことを、仏教は「迷妄」と指摘しています。

 何より、私が出会ってきた「金だけ」で動く人は、地域を大切にしませんでした。「好き」で動く人は、楽しい間は積極的ですが、飽きるとすぐに放り出しました。そして、私が出会った「地域を大切にする人」は、先輩方が届けられたパスをしっかりと受け止め、次の世代に渡そうとする人たちでした。
 その地に根を張って生きるからこそ、その地を大切に思う。だからこそ、受け継がれた歴史や文化、そして次の世代のことをも含めた責任感がある。そんな人たちの後姿を見て育ってきた私にとって、「お金」や「好き」でやっている内は地域の私物化にしかならないとしか思えません。「国を愛する心」「郷土を愛する心」を育もうとする内閣の閣僚であるならば、「地域を大切にするマインドとは」を深く考え、地に足をつけた発言をしていただきたいと念願します。
 「地方に雇用を生む」ということは、とても大切な問題です。お金は大切。だからといって、「地方創生とは稼ぐこと」と安易に定義することは、逆に地方を衰退させてしまうものでしかないというのが、地方に生きてきた私の実感です。


 そして責任と権力、影響力のある大臣という立場からの発言は、必ず周囲の「忖度」を生むのですよ。だからこそ、軽い一言がどんな悪影響を生み出すかを自覚してもらわないと困ります。
 いや、よくよく考えると、これは大臣個人の問題ではないのかもしれません。実は、現内閣のマインドを、現代社会の私たちの思いを「忖度」して、大臣は発言をされたのかも…。だとしたら、これはとても根深く、私たち皆が考えなくてはならない問題です。





 先日、山口大学の歴史の先生を訪ねたときのこと。研究室がある人文学部棟へ向かう際、「人文学部」の看板に「Faculty of Humanities」と書き添えられていたことに気づき、ハッとなりました。「人文学部」とは「人間学(the humanities)」を学ぶ学部なのですね。文学、言語学、哲学、宗教学、歴史学、美学などの様々な分野から「人間を学ぶ」場なのだということを、教えられました。
 近頃は「役に立つ学問」(=お金儲けにつながる学問)ばかりが奨励され、「人文学部はいらない」と言い切る人もおられるようです。しかし、人間とはどんなことに喜びや悲しみを感じ、感動し、どんな失敗をしたかという「人間」の深みがわからなかったら、幾らお金を儲けても使い道を誤ってしまいます。お金でしか人生を量れない人は、お金では量れない喜びや感動があることを知らない人であり、その喜びや感動を平気で踏みにじることができる人でもあるのですから。

 私の敬愛する映画監督の今村昌平さんは、自らが設立した映画学校の理念を「人間とは、かくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱弱しいものか、人間とは何と滑稽なものかを、真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。」と言われたそうです。続けて「そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。」と。確かに、この視点がなければ、感動させる映画は作れません。金儲けだけを考えた映画を撮っても、心を揺さぶることはできません。深みのない人間を撮っても、映画は豊かにはならないのです。せいぜいできるのは、快楽の消費を促すことくらいでしょうか。


 同時に、この視点を見失った社会は、他人も自分も、消費の対象や金儲けの手段にしか扱わない、寒々としたものになるのでしょう。いや、既になっていたりして。■