今年も、あっという間に終わろうとしています。本当に忙しい年でした。慌ただしくも心豊かに過ごせれば良かったのでしょうが、結局心貧しく終わったような気がします。だからこそ、一年を振り返ることで、次の年へと活かさねばなりません。
 ということで、今回の『一年を振り返って』では、今年の流行語大賞に選ばれた「忖度」を取り上げます。かねてより、この「忖度」という言葉には、とても大切な問題が込められていると思っていたのです。

何年か前に、「KY」という言葉が流行りました。「空気(Kuuki)が読めない(Yomenai)」の略語だそうで、場の空気や世間の目を気にする日本人気質を表す言葉として、様々な場面で使われましたが、今や誰も使わなくなりました。使うような「空気」ではなくなったからでしょうか。
 ちなみに、「空気を読む」ことと「配慮する」ことは、似ているようで違います。「配慮」とは、相手を大切にしようとする思いやりの心です。他者への想像力です。しかし「空気を読む」とは、むしろ他者よりも自分の立ち位置や利益・不利益が優先されます。かつてビートたけしが、赤信号、みんなで渡れば怖くない≠ニ喝破したように、「空気」が許せば、いじめや差別も戦争も平然と行われるようになるということなのです。

 
 



 さて、流行語大賞となった「忖度」という言葉。辞書には「他人の気持ちを推し量ること」とありますから、悪い言葉ではなさそうです。この言葉が注目されたきっかけは森友学園の国有地売却問題ですが、外国特派員協会主催の籠池前理事長への会見で、予想外のことが起きたのだとか。「忖度」を英訳しようとした通訳者が、「言い換える言葉はありません」とサジを投げたというのです。「気持ちを推し量る」という言葉なら、世界中どこでもあるだろうと思うのですが、佐藤直樹九州工業大学名誉教授は、「忖度」とはあくまでも「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して、行動を決定する」ことだと言われています。、日本特有の「場の空気」や「世間のルール」という概念が西欧には存在しないから、訳すことができないのだと。

 

日本特有の「場の空気」「世間」については、『空気の研究』(山本七平著1983年発刊)という名著もあるように昔から様々な指摘がされていますが、演出家の鴻上尚史さんが、著書『空気と世間』の中で紹介しておられた、二つの身近なエピソードが印象に残ります。

一つ目は、「空気を読む」ことについての、テレビ番組のエピソードです。テレビのバラエティー番組は、司会者(MC)を中心として作られます。出演者は司会者が求めている「空気」を読み、立ち位置を気にしながら、しゃべります。司会者もそれを受け、出演者を活かし、番組は盛り上がる。「空気」を上手く読む人は、違う番組にも出るようになり、人気者になっていきます。読めない人、乱す人は、出演できなくなります。

このような「空気」の読み方が、私たちの日常生活に大きな影響力を与えているというのが、鴻上さんの指摘です。テレビの影響力は、侮れません。例えば、ご飯を食べての「うっまぁ〜」という大げさなリアクション。手を叩いて大げさに笑う若者たち。昔は見なかった光景は、テレビの芸人さんの動きが刷り込まれたものなのです。私たちはテレビの影響を受け、いつしか「空気を読む」必要性も学習させられている。そのため日常的にその強制力が強まっていると指摘されるのです。

テレビ番組ならば、司会者も番組の方向性もハッキリしていますが、日常では誰が司会者かわかりません。声の大きな人、影響力のある人が、いつも正しいとは限りません。そんな中で、誰が上なのかを探り、意向を推し量る。読めなければ仲間外れになりかねませんから、委縮し息苦しくなる。切ない話ですが、なるほどと実感するところです。

 
 
 
 

もう一つは、「世間」ということについての、あるおばさんのエピソードです。電車でたまにおばさんの団体に遭遇すると、その中の元気な人がまず車内に飛び込み、座席を確保する場面に出くわします。そして、「ほら、ここ!取ったわよ!」と叫び、自慢げに仲間たちの席だと主張するおばさん。周りの人の迷惑そうな視線をまったく気にすることもありません。でもこの方は、決してマナーが悪い人ではないと、鴻上さんは言われます。それどころか、仲間思いのとても親切な人のはずで、困っている仲間がいれば、きっと親身になって相談に応じているのだろうと。ただおばさんは、自分に関係のある世界と関係のない世界をきっぱりと分けているのです。それも、多分無意識に。鴻上さんは、きっぱりと分けたうちの、自分に関係のある閉じられた世界を「世間」と呼ぶのだと指摘されています。

 

だとすれば「忖度」とは、「世間」という閉じた世界の中で、その中心的な人の意向を推し量り、「空気」を読むということではないでしょうか。ならば、その「世間」の外にいる人には無関心になってしまいます。そもそも「忖度」という言葉が注目されたのは「あなたたちだけの空気で、決めないで欲しい」という、いわば「世間」の外に置かれた人たちからの強い指摘があったからでしょう。

 

「忖度」とは、日本の美しい伝統で、人間関係を円滑にするという人もいます。良い忖度と悪い忖度があると言われたのは、大阪府の知事さんでした。しかし考えてみれば、「上の意向を忖度する」という表現はよく聞きますが、上の立場の人が「自らの影響力を配慮し、忖度し行動した」という使われ方は聞いたことがありません。「忖度」は、もはや下の者が上の「空気」を伺うことにしか使われていないのです。ならば、良い悪いがあるというのは、忖度してもらう側の理屈です。前出の佐藤直樹教授は、「いい忖度、悪い忖度の区別などありえない」と言い切られています。

(参考 毎日新聞201793日〈「忖度」とは何か 優先される「世間のルール」 日本独特の「空気読め」圧力〉)



「世間」という枠組みの中で「空気」を読み「忖度」することは、枠外の他者を、どうでもいい存在に扱うということです。それは同時に、切り捨てられる恐怖もつきまとうことでもあります。

近頃は、ネットやスマホの普及により世界が広がるかと思いきや、どこの誰から叩かれるかわからないと、「世間の目」や「空気」を気にする度合いが高まり、委縮した時代になりました。だからでしょうか。そこからはみ出る人は、かつてないほど残酷に吊し上げられるようにもなっています。不祥事を起こした人たちがテレビで謝罪しているのは、被害者に対してではありません。「世間」に対して頭を下げているのでしょう。選挙結果でさえ、「風」や「空気」で決められるようになりました。

 

「世間」とは、元々仏教用語で、私たちの住む世界全体を表します。ならば、私たちが日常的に使う「世間」とは、本来の意味よりも、もっと小さく矮小化したものだと言えるでしょう。そんな小さな枠組みの中で「忖度」している私たちに、枠の外から呼びかけられる声がある。それが「出世間の法」、仏法です。私の小さな枠組みを揺さぶり、世界の広さに、深さに、豊かさに目覚めさせて下さる教えです。新たな出会いを開き、まだ知らない他者への想像力を育てて下さる教え。それはまさに、真実の「配慮」「思いやり」「温もり」である、慈悲の心に裏付けられ届けられています。

狭い「世間」に閉じこもると、息苦しくなります。窓を開け、新しい「空気」を入れることも必要です。心の窓を開いた時に、吹き込んでくる仏法という「出世間」の風が、私たちの人生を豊かにして下さるのだと、先を歩む人から教えられています。■