2018(令和3)年『伝道』89号 


 本願寺から出版される『伝道』という冊子に寄稿しました。〝「そんな時代じゃない」を考える〟というテーマで依頼されたものです。おびただしい情報の中で、「合理化」や「簡素化」の〝美名〟のもと、「(今は昔と違って)そんな時代じゃない」の一言で、多くの物事が切り捨てられていく現代社会。しかし、切り捨てていいものと、切り捨ててはならないものを、見定めなくてはならないのではないかというのが趣旨のようです。簡素化の波の中で、葬儀、法事に取り組む現場から見えてきたものを書いています。

 










私の住んでいる山口県長門市は、いわゆる田舎だけに葬儀や法事を大切にする地域です。恵まれた環境とはいえ「そんな時代じゃない」という簡略化の波は確実に押し寄せています。そんな狭間の現場における取り組みから見えてきたものを、お伝えしようと思います。

 

「合理的」の正体

世界の貧困や不公正など平和と人権に関わる問題に、仏教精神に基づき宗派を超えて取り組むアーユスというNGOがあります。そのスタッフだった三村紀美子さんは、以前は外資系企業に勤務され、そこでは合理的なやり方が重んじられていました。「これをこうすればこうなる」と理詰めで考え実践していくと、色々なことを背負い辛くなったと言われます。なぜなら、うまくいかないと「自分に原因がある」と思ってしまうから。巷で言われる自己責任論です。これでは真面目な人ほど、自分を責めてしまいます。
 
 ところがアーユスのスタッフになり縁起の思想と出遇うことで、見方が変わったというのです。全ての現象(果)は様々な原因(因)と条件(縁)が関係し合って成立しているという縁起の思想。だから単純に×か、善か悪かとは言えない。人も社会も事業も、原因から結果へ一直線で結ばれるのではなく、様々な縁で繫がっている。そう知らされると、うまくいかないのは「自分がダメだから」と考えなくなったのです。もちろん、安易な責任転嫁ではありません。目先の結果に捉われず、深慮する方向へと歩み出されたのでしょう。

 三村さんは言われます。「合理的の理とは、凡夫の理にすぎないのかもしれない。仏教の方が本来の意味で合理的、理に適っている気がする」と。私たちが日常的に使っている合理的とは一体どんなものなのか。よくよく考えてみる必要がありそうです。


そもそも人間とは、「こうすればこうなる」という理屈だけで動く生き物ではありません。小さなことや目先の思いに捉われ、感情に左右される。失敗しない人はいませんし(認めない、気づかない場合はありますが)、努力しても結果につながらない時もあります。弱くも強くもあり、優しくて時に残酷で。お金で動く場合もあれば、動かない部分も持っています。単純に×か、善か悪かでは決められない、複雑で矛盾に満ちた非合理的な存在。それが人間でしょう。何より、いつまでも若く元気にはいられないし、必ず死なねばならないという事実さえ、私たちは忘れがちに生きています。

そんな人間の事実を深く見つめることもなく、頭だけで考えた理屈の下に、スケジュールと効率が優先され、事務的に処理されるのが、私たちが生きている時代ではないでしょうか。ならば、人間が本来持つ非合理的な部分は邪魔になります。感情を持たない交換可能な部品として扱う方が「合理的」。老い、病み、死んだ者は、切り捨てた方が「効率的」。そんな凡夫の理によって、人間を人間扱いしない状況が生み出されているように感じるのです。

 


身体を通すからこそ

人間は必ず死ぬということは、誰もが頭ではわかっています。しかし、大切な人を喪った時に「人間は死ぬからね」とクールに言い切る人を、私は見たことがありません。皆、「まさか」「こんなに早く」と戸惑われます。頭で理解することと、身体を通して深く味わうことは違うのです。

葬儀や法事は、人間の悲しみや痛み、温もりを、身体を通して感じさせられる場です。死という厳粛な事実を通し、問いが突きつけられる場でもあります。生きる上でとても大切な時間だと思うのですが、合理的、効率的の名の下に簡略化され、ゆっくりと味わい噛みしめることもできない時代になりました。

確かに、葬儀は大変です。時間も労力もかかります。しかし、「人間が死ぬということは、こんなに大変なことなのか」と身体を通して味わうことがなければ、「人間が生きていたことの重さ」もわからなくなり、自分の人生も、他者の人生も、そして遺された人の悲しみも、軽く扱ってしまいかねません。

人間は死ぬのです。それは遺された者にとって、とても大きなことなのです。そんなごく自然なことが見失われたまま、私たちの社会は設計されてはいないでしょうか。だから自然なことであるはずの死は、非日常的なトラブルにしか思えなくなる。「早く日常生活に戻らねば」という思いにもなります。でも、人が一人亡くなっているのですよ。そして、大切な人を失ったから悲しいのです。

私たちが一般的に使っている合理的とは、人間存在を深く見つめた上でのものではなく、実は頭だけで考えた、まさに「凡夫の理」なのではないでしょうか。これこそが今の時代を覆う病巣であると、私は葬儀や法事の現場を通して実感するのです。そんな人間が握りしめている理そのものを鋭く問い、揺さぶるはたらきこそ仏法だと、私は受け止めています。

 


先人の知恵である儀式

儀式・儀礼は、単なる事務処理ではありません。人間であるからこそ必要なものなのです。以前、六〇歳過ぎで亡くなられたご門徒の七日参りに、隣町に住む妹さんの姿が必ずありました。その妹さんが「七日参りって大切ですね。兄が亡くなり本当に悲しかったのに、家で生活しているとその悲しみを忘れているのです。でも、七日参りで「もう二七日か。三七日か」と噛みしめ、味わうことができました。来なかったら生活に流されて、大切なことを忘れていたでしょう」と言われました。やはり人間には区切りが必要なのです。頭でわかっていても、つい忘れてしまう。振り返り、味わう時間が定められた形として用意されているのは、とても有り難いことだと思います。頭だけの理解は知識にすぎません。身体を通さねば気づけないことがあるからこそ、儀式・儀礼が用意されているのです。

とはいえ、近頃は七日毎に皆が集まれるような時代ではないことも確かです。葬儀と初七日を一緒に勤めるようになったのもその為でしょう。それでは単なるスケジュールの消化です。私は「無理に集まらなくていいですから、せめてその場で「今日は初七日か。もう三七日経ったのか」と手を合わせ、振り返り味わって下さい。それだけでも全然違います」とお願いするようにしています。

これは、あくまでも体験的な私見なのですが、通夜、葬儀は、慌ただしさで悲しみのショックを和らげ、また「悲しいことだが、ここからしか始まらない」という現実を、周りの人々と共に受け容れる時間ではないか。そして、しみじみと悲しみを味わう時間が七日参りや法事として用意されているのではないかと思うのです。葬儀から法事までの一連の流れは、人間を知り抜いた方々が整えられた、まさに先人の知恵であることを実感しています。とても良くできたシステムです。

先日、会社で「おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったくらいでは、休めませんから」と言われたご門徒がありました。スケジュールと効率が優先されると、頭だけで考えていると、こんな冷酷な言葉が、平気で飛び交うようになるのでしょう。近い将来「親が死んだくらいでは」「連れ合いが、子どもが死んだくらいでは」会社を休めない時代が来るとしたら…、ゾッとします。葬儀・法事という儀式は、人間が人間らしく生きるための防波堤なのかもしれません。ここが崩れてしまうと、私たちは想像以上に大きなものを失ってしまうのではないでしょうか。

 


頭だけで考えると

自動車教習所の教官をしている知人に、とても興味深いことを教えられました。教習所にはいろんな生徒がやってきます。とんでもない所で突然ハンドルをきる人や、どうしたらそうなるの?と思うようなシートベルトの締め方をする人もいます。そんな何かを「しでかす人」は、すぐにわかるのだとか。ポイントは車に乗り込む時。大抵の人は腰からか、もしくは身体全体で乗り込みますが、しでかす人は…、頭から乗ってくるというのです。つまり、身体がついていかない。業界では有名な話だそうです。

これは他人事ではありません。頭だけで考えていると、身体を、人間の事実を見失う。老い、病み、必ず死んでいくことを。大切な人を失うことは悲しいことであり、それを悲しむ時間が必要なことを。そんな自然なことを見失い、スケジュールと効率を優先すると、人間を踏みにじることを「しでかして」しまう。人間とは非合理的で面倒くさく、ややこしい。だから、一つ一つ手順を積み重ねる必要があるのです。

 

ある独り暮らしのおばあちゃんが亡くなられた時のこと。都会におられる息子さんに「この地域では、班の人に葬儀のお手伝いをしてもらいますから、班長さんに挨拶に行ってください」と伝えると「私たちはこちらに帰ってきませんから、お返しもできないので行けません」と言われました。私が「おばあちゃんにお世話になった人、手伝いたいという人がいます。ぜひ、班長さんのお宅に行ってください」とお願いすると、葬儀の後に言われましたね。「たくさんの人がお参りに来られて、うれしかった。お手伝いしてもらえて有り難かった。おばあちゃんは、あの人たちと生きてきたんだね」と。同じケースはいくつもあります。亡き方は遺族だけのものではありません。共に生きた人がいるのです。同様に、私たちも様々な縁の中に生かされているのです。目に見える部分で、人間の営みを決めつけてはいけません。

法事もまた、長いいのちの歴史があって、今私が生を賜っていることを知らされる場なのです。「顔も知らない人の法事を、なぜ私が勤めなくてはいけないのか」と言われる方もありますが、顔も知らない人のお陰で今の私があることに気づかされると、世界の見え方が変わってきます。

 


人間であるからこそ

私は葬儀の際、子どもさんがおられると「子どもはじっとしていることはできませんから、騒いでも構いません。でも、この場にいることが大切なのです。手を合わせるところを、大切な人を亡くして悲しんでいる姿を見せてあげてください。お母さんは、おじいちゃんを亡くしてこんなに悲しいんだよ。皆が悲しむのは、大切に思っているからなんだよ。そして、あなたが死んだら、同じように皆が悲しむよ。あなたも同じように大切に思われているんだよ。そんな姿を見せてあげてください」と言うようにしています。死から教えられる大切なことがある。悲しみを通すからこそ知らされる世界がある。それを受け止める姿が伝えるものもあるのです。

近頃は「私には葬儀も法事もいらない。迷惑をかけたくない」と言われる方が増えましたが、自分の親の葬儀や法事がそんなに迷惑だったのでしょうか。「皆に迷惑かけて申し訳ない」と口癖のように言われるおばあちゃんへの、「ばあちゃんは、ひいばあちゃんに優しくしていたじゃないか。だから、僕たちにも同じようにさせてよ」というお孫さんの一言は、感動モノでした。

「そんな時代じゃない」と言って安易に簡略化することは、人間を人間扱いしない時代を肯定することになりかねません。

 

親鸞聖人は、弱さ、愚かさ、悲しさを抱える人間を、深く見つめられた方でした。そしてその人間が、そのまま尊ばれ救われていく阿弥陀如来の本願と出遇われたのです。その願いには、温もりのあるまなざしが込められています。実は、今の時代に一番求められているのが、この温もりあるまなざしだと現場を通して思うのです。浄土真宗の仏事には、そんなまなざしに包まれていることを目覚めさせる仕掛けが、様々に張り巡らされています。

まさに儀式・儀礼とは、人間が人間であることを確認する場である。私はそう実感するのです。

 


時代に抗うために

但し、時代に抗うためにと僧侶が頭だけで考え大上段に形を押し付けることは、僧侶と時代との板ばさみを生み、遺族を苦しめることにもなりかねません。ならば「せめて、これくらいは」「こういう形では」と、状況に応じた柔らかな抵抗策を提示することが、僧侶に求められています。各寺院、各地域には事情があります。オールマイティーな正解を求めるのは時代の悪癖。そんなものはありません。それぞれの現場で、苦悩しながら探るしかないのです。しかし苦悩を通すからこそ、その言葉は説得力を持つのでしょう。そしてその場には、この時代に欠かせない存在となった葬儀社さんとの協力も必要です。お互いに敬意ある連携、信頼作りが不可欠です。

人間ですから、すぐに出来上がるものではありません。日々、コツコツと丁寧に積み上げていくのみ。そんなことを考えながら時代に抗おうと、現場で悪戦苦闘している最中です。■