2015(平成27)年7月
※ 言葉が荒れています。しかも、責任があり影響力もある立場の方々の。とても成熟した大人の態度とは思えません。「あんな大人になりたい」と、次の世代があこがれるような魅力ある大人にならなければ!「あんな大人でいいんだ」ということにならぬように!という責任感をヒシヒシと感じる今日この頃です。
 
 
 
 




「ドラえも〜ん、助けて〜」

住職と同世代以降の方ならば、誰もが一度は思ったことがあるのではないでしょうか。「ドラえもんがいたらなぁ」と。

いまや、世界的にも認知されている『ドラえもん』。未来からやってきた猫型ロボット・ドラえもんが、四次元ポケットから取り出す「ひみつ道具」で、のび太くんの身にふりかかった災難を解決しようとするお話です。とはいえ、のび太くんが調子に乗って道具を使うことで、しっぺ返しを受けるというパターンが多いのですが。

さて、先日あるニュースを目にしたことで、五〇歳を過ぎたにもかかわらず、「ドラえも〜ん、助けて〜。あの道具出して〜。」と叫びたくなるような思いがしました。

 

あの道具とは、「どくさいスイッチ」。

ガキ大将のジャイアンにいじめられたのび太くん。思わず、「ジャイアンさえいなかったら、こんな目にあわなかったのに・・・。どこかへ引っ越していかないかなぁ。」とつぶやきます。

それを聞いていたドラえもんは、「ふうん。そんなふうに考えるんだ。じゃ、やってみる?」とポケットから一つの道具を取りだしました。

 

「これは『どくさいスイッチ』」

 

気に入らない者の名前をげて、スイッチを押すとその人が消えてしまうというモノ。その名のとおり独裁者のためのスイッチです。

 

「な、簡単だろ。邪魔者は消してしまえ。すみごこちのいい世界にしようじゃないか。」

 
そんなささやきに、のび太くんは

「しかし、人ひとり消すというのは・・・、おそろしいことだ。

しばらく考えてみたい。」


       



 ところが、再びジャイアンにいじめられそうになり、思わず「消えろ!」とスイッチを押してしまうのです。とんでもない事をしてしまったと自分のしたことに怯え、もう二度と使わないぞ!と心に決めますが止まりません。事あるごとに、消してしまいます。

 

「おそろしいスイッチだなあ・・・。かっとなると、つい・・・・。おしたくなるもんな。」

 

ついには、みんなからからかわれ、笑われる夢にうなされ、「誰もかれも消えちまえ!!」と寝言をいいながら、スイッチを押してしまったのです!世界中から人という人が消えてしまいました。独りぼっちになりどうしようもない恐怖に襲われるのび太くん。

 

「ひとりでなんて・・・、生きていけないよ・・・。」

 

そこに、消したはずのドラえもんの声が。

「気に入らないからって次々に消していけば、きりのないことになるんだよ。わかった?」

 

実はこの「どくさいスイッチ」。独裁者を懲らしめるための道具であり、消えた人たちもきちんと元に(もど)るようになっているのです。

気に入らない人を消していっても、きりがない。思い通りにならない人を消していけば、気がつけば独りぼっちになってしまう。「思い通りにしたい」という自分の思いが、実は苦しみの原因になるのだという、とても仏教的なお話です。

(だからといって、ジャイアンのいじめが正当化されてはいけませんが。)

 

 
             


さて、この「どくさいスイッチ」を出して欲しいと思ったきっかけが、六月二十七日自民党の若手勉強会で出席議員が、「マスコミを懲らしめるには、広告収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけてほしい」という圧力をかけるような発言をされたこと、そして講師で招かれた有名作家の方の「沖縄の二つの新聞は、つぶさなくてはいけない。」という発言です。

圧倒的多数の議席を持つ与党の議員が、そしてその議員が学ぶために招かれた講師がする発言とは、とても思えませんでした。

おまけに作家氏は、「言論は自由であるべきだ。私と意見が違う二紙を誰も読まなくなり、誰も読者がいなくなってつぶれてほしいという意味での発言だ。」ともおっしゃったとか。

 

小学四年生(という設定)ののび太くんでさえ「人ひとりを消すというのは・・・、おそろしいことだ。しばらく考えてみたい。」とためらいましたが、いい大人であり、しかも影響力があり、実際に権力の立場におられる方が、まったくのためらいもなく言い切ってしまうというのは、いかがなものでしょう。とても大人げなく、とても恐ろしい気がします。

 

 ここで、思い出して下さい。ドラえもんの声を。自民党の若手議員さん、そして有名作家さん、聞いて下さい。ドラえもんの声を。

「気に入らないからって次々に消していけば、きりのないことになるんだよ。」

  仏法の真骨頂は、「私の思い」という枠組みをずらし、揺らすはたらき。「私の思い」「私の好き、嫌い」が、全てではない。逆に、「私の思い」が私自身を苦しめるのだ、と「私の思い」を揺さぶり「何とちっぽけな思いに縛られていたのか」と気づかせ、目覚めさせて下さるものです。 まさにドラえもんの声が、仏法のように響いてはきませんか。


 でも、「気に入らないヤツは、消えろ」「意見が違う新聞つぶれろ」というのは、器がとても小さいですね。昔の自民党の政治家は、もっと懐の深い人がたくさんいたはずなのに。それだけ、ものの見方の幅が、狭くなっている時代なのでしょうか。
 何より「言論の自由」があるから、何を言ってもいいのであれば、差別的発言も、言葉によるいじめも、許されることになってしまいます。それは違うでしょう。自由とは、みんなにあるもの。自分だけにあるものではないのです。相手の存在を尊重しない発言は、単なる「暴言」です。

 

 自民党の若手議員や有名作家さんは、自分では国を愛するがゆえの発言だと思っておられるでしょう。でも、あなたが愛する国とは、意見が違う人は住めない国なのですか?国を愛するなら、同じ国に住む人たちを愛して欲しい。違う意見の人も。思い通りにならない人であっても。

意見が違う人を切り捨てるのは、本当に国を愛しているとは言えません。単に「私と同じ考えの人たちだけが住む国」を愛しているのであり、突き詰めるところ、ただ「私」を愛しているだけのこと。それがエスカレートすれば、独りぼっちにしかならないことを、ドラえもんは教えてくれるのです。

  どくさいスイッチは、カッなると「すぐ押したくなる」おそろしいもの。権力とは、
  まさにそんな魔力を持ったものなのです。気に入らない者を消すことができる力を
  持てば必ずその力に溺れ、排除をくり返す。それはのび太くんだけではないでしょう。
  私たち人間が持つ本性だと、歴史が教えてくれています。


 

 もし、ドラえもんがいたら、「どくさいスイッチ」を使って諭して欲しいのですが、それはムリなお話。しかし、私たちがよりどころとする阿弥陀如来の「浄土」とは、私の嫌いな人も、意見が違う人も、共に生きる世界です。何よりも、「私」が問われ、「私」という枠組みが問われる世界です。だから、「私」が嫌いな人とも、「私」と意見の違う自民党の若手議員の方々とも、有名作家さんとも、共に生きていかねばならない。その存在は、敬わなければならないと教えて下さる世界でもあります。

そんな世界を「よりどころ」とする私たちだからこそ、今こそ、もの申さねばならないと思っています。ドラえもんはいないのですから。■