最近あまりテレビは観ないのですが、先日たまたま観たテレビ番組が、細木数子さんがずばり≠ィっしゃる番組の再放送でした。 色々と思うところはあるのですが、
やはり「この人は、すごい人ではあるな」というのが印象として残りました。
スタジオ全体であの空気を作り上げてはいるのでしょうが、その空気の中心にいることができるカリスマ性。 人間に対する洞察力。 あれだけのことをずばり′セえて、そして出演者、視聴者へ説得力を持って訴えていくパワー。
すごいなあと、感心しました。
人生経験を積み、つらい時期も味わい、深く考えもしてこられたのでしょう。 でなくては、あれだけのことは言えません。 人間的な魅力も、かなりお持ちのことなのでしょう。
ただ、僕は細木数子さんを「すごい」とは思いますが、心酔したり、占ってもらおうなどとは思いません。 カリスマ性、人間的な魅力、人間に対する洞察力、パワー。
それがあることイコール素晴らしいと、言い切れるのだろうかと思うのです。 別に、細木さんにケチをつけようというつもりではありませんが。
新興宗教の怪しげな教祖、詐欺師などと言われる人たち。 でもそんな人がいるということは、その裏には騙される人、つまりは彼ら、彼女らを信頼する人がいるということです。
それは、彼ら、彼女らにも、それなりのカリスマ性、人間的な魅力、人間に対する洞察力、パワーがあるからなのでしょう。(僕たちからすれば、女優若村麻由美さんの配偶者がどんなに怪しいように見えたとしても、彼にも大きな魅力があるのでしょう。でなくては、あんなきれいな女優さんと結婚できませんよね)。
人間の弱い部分、そこを突かれると不安になり、動かざるをえない急所。 そういうものを洞察する力がなくては、人を騙し、動かすことなどできません。
信用させるためには、人間的な魅力も必要ですし、その場の空気を作り上げるパワーも必要です。
このようなことを言うと、「私を、そんなヤツらと一緒にするなんて、なんと失礼な」と、細木さんにずばり$リり捨てられそうですが、別にそんなことを言っているわけではありません。
私が言いたいのは、その優秀さ、魅力というものを、信頼の判断基準にして良いのかということです。確かに、魅力ある人には惹かれます。自分より深い洞察力がある人を、素直にすごいと思います。
細木さんのような言葉をずばり′セえるお坊さんは、そうはいません。
でも、正直言うと「だから、何なんだ」と思うのです。
だから、あなたはどうしたいのか。
あなたが、一番大切にしようとしているものは、何なのか。
大袈裟にいうと、どんな世界を目指してしているのか。
つまりは、あなたはどんな方向性を持って、人生を歩んでいるのか。
僕は、そこに一番興味があるのです。
いくら魅力があり、力、技術があっても、それを使って人を操り、利用し、我が身の利益のみを考える方向に歩むのならば、それはかえって厄介な力でしかありません。
たとえ知識や技術を持っていても、それが相手を打ち負かすためのみに使われるのならば、そんな知識や技術はあまり意味あるものにも思えません。
素晴らしい力を持つ人がいたとしても、その力がどの方向に使われるのかを考えなくては、騙されたり、服従させられたり、操られることにもなりかねないのです。
本当に怖いことは、最初、人気者の顔をしてやってくる
これは、最初の小泉ブームのときに、社民党が打ち出したCMのコピーです。 かなりの反発が寄せられたようで、この部分をカットして放送した局もあるようですが、僕は本当にいいコピーだと思います。
「人気がある」「魅力的である」ということを、支持する根拠とするのは、実は危険なことだと思います。
その人がどんな世界を目指しているのか。その方向性を見つめる必要があると思います。
ちなみに、石原都知事や、保守系の若手政治家の方々。 皆さん、人気のある政治家ですが、 では、彼らが目指す「国」とは、一体どんな国なのでしょう。私から見れば、彼らが目指す国は非寛容さが目立ち、本当に僕やあなたがいる場所があるのか心配でならないのです。
「国益」「お国のため」とは、昔から言われる言葉ですが(彼らもよく使いますが)、そこでいわれる「国」とは、どんな国なのでしょう。「ため」とは、誰のためなのでしょう。
もう少し、丁寧に考える必要がありそうです。
さて、ではその人が目指す方向性とは、どうやって知れば良いのでしょうか。 そんなものは、中々明確には見えてきません。 巧みに粉飾もされます。
中々難しい問題ですし、勿論僕ごときが、それをずばり≠ニ言い切るなんてことは、到底できません。
ただ、ただ、僕の判断基準のひとつをあげるとするならば、
「何に悲しみを持ち、何に悲しみを感じていないのか」
「誰のことを大切に思い、誰から目を背けているのか」
ということではないでしょうか。
いくら良いこと言っている人でも、何を悲しんでいるのか、何に悲しみを感じていないのかで、その言葉の質はわかります。誰の顔を思いながら、どの立場の人のことを思いながら話すかで、言葉の質は変わります。
いくら良いことをしても、それを実現させる陰には、切り捨てざるを得なかった人が必ず出てきます。 そのことを悲しみに思うのか、思わないのか。そこから、誰を大切にしているのかがわかります(「痛みを伴う改革」を掲げた小泉さん。痛みを感じている人の叫びを、深く胸に刻んでいただかないと、単なる切り捨てにしかなりません)
。
「何に悲しみを持ち、何に悲しみを感じていないのか」
「誰のことを大切に思い、誰から目を背けているのか」
それがつまりは、
その人が目指す世界の大きさをあらわし、
その人が大切に思う人の多さをあらわすのだと思うのです。
同時に、誰が大事にされ、誰が仲間はずれ(非国民)とされるのかも。
だから、僕は力や、魅力や、人気や人間的な魅力よりも、その人の悲しみに興味を持つのです。 そこに、僕は信頼の判断基準を置こうと思うのです。
誰かを悪者にして、裁くことで爽快感を得るような手法は、わかりやすいだけに効果がありますが、複雑であるはずの本質を見えなくさせてしまいます。何より、いつ自分がその「悪者(非国民)」の立場に追いやられるのかと思うと、ゾッとしませんか。
ちなみに、細木さんの発言に対する個人的な感想としては、
あまりにも、上から下にものを言いすぎているような、
あまりにも出演者よりも、優位に立とうとしているような、
あまりにも、自分の正義を押し付けられているような、
それを乱す者に対して、必要以上に憤っておられるような、
(誰が大事にされているのかが、自然とわかるような…)
魅力や力が、そこに向けられている印象を持ちました。
ずばり′セって、僕には好感は持てません。
真剣に観ていない者が、なんとまあ傲慢で失礼な言い分でしょう。でも、細木さんにはずばり′セう権利があって、僕にはずばり′セう権利がないというのであれば、それは、とっても悲しい思いがするのです。■
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