2005(平成17)年11月24日 ミクシィ 
 
 

※ うろ覚えで恐縮なのですが、ちょうど一年前の東日本大震災について、政治学者姜 尚中さんが、「二万人の死者≠ニ、二万一人の死者≠ナは、全く違う」と発言されたとか。葬儀という場に携わる者の一人として、本当にそう思います。ところが一方では、数字だけで判断してしまう自分もいるのです。数字の向こうにある、人間の営み、温もり、におい。そういうものを、頭だけではなく、身体を通して受け止めることが、本当に大切だと痛感しているこの頃です。

 
 
 
 
 
 
 

うちの近くのバッティングセンターに、子どもと行ってきました。
客も少なく、古いのが売りのような場所。
そこで、急に便意が。
「これはヤバイ」ということで、おじさんにトイレの場所を尋ねると、外にある古ぼけた小屋を指差されました。

扉を開けると、期待通り、昔懐かしいボットン便所=B思わず感動してしまいました。
汚いと仰る方もあるでしょう。
臭いと仰る方もあるでしょう。

勿論、ウォシュレットの気持ちよさ、トイレでゆっくりと本が読める洋式の有り難さも捨てがたいのですが、ボットン便所≠ニは、まさしく私の生活の営みとでも言いますか、私の現実とでも言いますか、それを知らされる場所のような気がするのです。
ところが最近は、汚いもの、くさいものを、見ない、見せない、そして消し去ろうとする世の中になりました。

昔の人と、今の僕たち。
どちらも、リアルタイムではそれが当たり前なのでしょうが、
一体どちらが、正常≠ネのでしょうか。




クレヨンしんちゃんの劇場版に、『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』という名作があります。

「なんだ、子どものマンガか」と馬鹿にするなかれ。
これは、大人にこそ観て頂きたい名作です。

Amazon.co.jp
のレビューでは、このように紹介されています。

臼井儀人原作のTVアニメの、2001年公開の劇場版第9作。
突如出現したテーマパーク「20世紀博」で、大人たちは現実の生活を投げ出し、童心にかえって楽しんでいた。
だがその裏には、絶望の21世紀を捨て、希望に満ち溢れていた20世紀を永遠に存続させようとする、秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの計画があった。
このままずっと20世紀が続くかに思えたその時、未来を守り、21世紀を生きるため、しんのすけが立ち上がる。
ファーストカットは太陽の塔だわ、
ひろしは半生を振り返るわ豆腐屋のラッパは夕暮れの商店街に鳴り響くわと、
子ども向け作品なのに大人のための見どころ満載で、いい歳した映画ファンがこぞって号泣、映画秘宝誌にいたっては年間第1位にまで選んでしまった大傑作。
一緒に観てるパパママが泣く理由を知りたいちびっ子は、大人になったらもう一度観てみよう。



ただ、この映画は懐かしさのみの映画ではありません。
もっと、もっと、奥深いものと見ました。

キーワードは「臭い」です。くさい≠ナはなく、におい≠ナす。

大人たちが、現実の生活を投げ出し、童心にかえったのは、秘密結社イエスタデイ・ワンスモア(この結社名だけで、唸りますね)が撒き散らしたにおい≠ノその原因があります。


かつての日本には、におい≠ェあった。
生きていることを実感できるにおい≠ェあった。
しかし、この今の21世紀は、僕たちが夢見たものではなく、耐えられない悪臭に満ちている。
生きていることを実感できるにおい≠ェ無くなった現代に、彼らは昔懐かしいにおい≠人工的に作り出します。



これから先は、ネタばれになりますが・・・、


そのにおい≠ノ魅かれたしんちゃんの両親をはじめとする大人たち。
子どもたちを投げ出して、自分の子ども時代に浸ります。

その両親が正気に返るきっかけは、
自分たちの子どもである、しんのすけとひまわりの顔を思い出すきっかけは・・・・、
何だと思いますか?


それは、
お父さんのくつ下のにおいでした。
強烈にくさい、くつ下のにおいでした。

それは、まさしく生活のにおいです。
たとえにおい≠ェ無くなった時代であるように見えても、そんな時代にも、人が営みをおこなっているのです。
泣き、笑い、そして生きるにおい≠ェあるのです。


人工的なものに満ちあふれた時代に、におい≠とり戻そうとする彼らが、
「生きていることを実感できるにおい=vを人工的に作り出そうとしている。

そしてそれは、現実に21世紀で営まれている親子の生活を壊し、そのにおい≠消し去る行為でもあった。
何と皮肉で、悲しいことか。

所詮、人工的なにおい≠ヘ、贋物でしかなかった。
イエスタディ・ワンスモアのリーダー、ケンは、その事実に気づき、揺らぎます。
そして、自分たちは歪んだ歩みを止めることができるのかを、野原一家に賭けてみます。

結局、最後にケンたちを止めたのは、特別な技や、特別な能力、特殊な機械ではありません。
野原一家の体を張った、汗と、涙と、鼻水にまみれた、まさしく生活のにおい≠サのものでした。
見たくないもの、汚いものを、見ない、見せない、そして消し去ろうとすることは、生活のにおい≠消し去る行為なのかもしれません。
それは、他者を消し去ると同時に、自分自身のにおい≠も消してしまう行為なのかもしれません。





オウム真理教の内部から、オウムを取り巻いている私たちの現代社会を映し出した、森達也監督のドキュメンタリー映画『A』では、あえてオウム信者の履いているくつ下を映すシーンがあります。
そこには、生活のにおい≠ェありました。
それはオウム信者を、洗脳された特別な存在にするのではなく、一人の生きている人間であることを伝えんが為のメッセージだと、僕は受け止めました。

勿論、それはオウムを擁護するためではありません。

「あいつらは、人間ではない」
という、彼らを特別視し、自分と切り離して安心する視点から、

「彼らも、人間なのか。人間とは、何と恐ろしいことをする存在なのか。そして、私もその人間なのだ。」
という人間存在の持つ、愚かさ、悲しさ、恐ろしさを、深く見つめる視点への転換です。


それは、簡単に決めつけ、切り捨て、消し去るのではなく、
悩んだり、苦しんだり、葛藤したり、口ごもったりすることです。
一番見たくない、自分自身の汚くて弱い部分を、隠すことなく見つめていく。
見たくないものを消し去るのではなく、ぐっと踏みとどまって現実を見つめていく、
それは、しんどくて嫌な作業です。


しかしそこには、生きているにおい≠持つ他者と、自己が、確実に存在していました。