2006(平成18)年2月27日 ミクシィ 

※ 映画『戦国自衛隊』がテレビと映画でリメイクされたことについて、ほえました。子どもの頃、初めてこの映画を見たときから思っていた設定についての疑問を、自分なりに整理したものです。ある前提(状況)の中に身を置いた時、どのように世界の見え方が変わり、生き方が変わるのか。非常に興味深い視点だと思ったのですが・・・。
 
社会学者の橋詰大三郎さんが、「宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提を置くことである」と定義しておられますから、実はこの視点、宗教的にも非常に興味深いものだと思うのです。「死んだら終わりだ」とか、「世の中、弱肉強食だ」「所詮、世の中金だよね」という前提を仮設するよりも、「すべての生きとし生けるものは、阿弥陀如来から願いをかけられている」「この人生は、浄土へ往き、生れる人生である」という前提を仮設するほうが(これを「仮設」というと、怒られるのかもしれませんが)、人生に対して深く豊かに、向き合えるのではないかと思うのです。

 
 
 
 
 
 
 

遅ればせながら、録画していた『戦国自衛隊 関ヶ原』(日テレ 前編 1月31日 後編2月7日放送)を見ました。千葉真一が主演した前作(1979年 監督:斎藤光正)は、僕の大好きな映画の一つですから、一応チェックしなくてはという義務感もありまして。

正直に言いますと、覚悟していたとおり、あまり良い出来ではありませんでした。
ラストで、一人現代へと戻ることができた佐藤江梨子の人格が崩壊していく様は、過去を戦時とし、現在を市民生活として、そのギャップから生じる戦争神経症(野田正彰の著述に詳しい)をあらわしているのでしょう。そのギャップを示すものとして重要な場面ですが、いかんせん演技・演出が・・・。

それに、誰か教えてください。反町くんは、あの演技で何を目指そうとしているのでしょうか・・・。 そんなツッコミをしていたら切りが無いので止めますが、ただ、映画『戦国自衛隊1549』(2005年 監督:手塚昌明)よりは救われましたし、好感も持てました。

1549』は、ちょっと酷すぎます。作品として、コメントしようもないのですが、あえてこの部分だけは。



前作も、今回のテレビ版も、自衛隊がタイムスリップした理由は、全くと言って良いほど語られません。突然、何の脈略もなく自衛隊員は、戦国時代へと投げ出されます。
それに対して、『1549』ではとってつけたような理由を語ります。それがまた、軽々しいのです。
タイムスリップした理由が必要ですか? 僕は、必要だとは思いませんし、逆にいらないとさえ思うのです。


僕は半村良の原作も、新作のために書き下ろしたという福井晴敏の原作も読んではいませんが、しかし映画(前作)を観る限り、この作品は

「ある状況に置かれたとき、人間はどんな行動をするのか」

が主題であると思われます。
その場合、いくら前提である状況が不条理であっても、「なぜタイムスリップが起きたのか」には、あまり意味がありません。

カフカの『変身』が良い例です。
グレーゴル・ザムザがなぜ朝起きると虫になっていたのか≠ノ捉われていると、この作品は読めないでしょう。ある状況の仮設を通して、人間というものを明らかにしていくという表現方法です。


だから、タイムスリップした理由など、語る必要はありませんし、語られなくて良いのです。
むしろ、軍隊とは認められない軍隊≠ニいう矛盾した存在である自衛隊が、戦いこそがすべてである時代に投げ出されるという設定にこそ、意味を見出すべきだと思うのです。



さて前作では、戦国時代に投げ出された隊員たちは、

ある者(ムッシュかまやつ)は、農家の娘と恋に落ち、共に生きることを選択します。

ある者(竜雷太)は、まだ幼い若武者(デビューしたての薬師丸ひろ子ですね。)と相打ちになり、戦国時代の無情さを歎きながら死んでいきます。

また、隊長である伊庭義明(千葉真一)と折り合いの悪かった矢野(渡瀬恒彦)たちは、近代兵器を使い、自分たちで天下を取ろうと言い出します。
本隊から離れ、本能のままに漁村を襲い、手当たり次第に女を犯す矢野たち。
彼らは、伊庭たちが放つ正義(?)の銃撃に倒されていきます。



さて、当初葛藤していた主人公伊庭の心は、次第に動き始め、長尾影虎(後の上杉謙信 演じるのは夏木勲)との交流を通して、天下取りを決意するに至ります。そのときの部下との会話が、この映画の山場だと僕は見ます。



「あなたは昭和の時代に戻りたくないんですね。」

「なにっ!

「この時代で戦っていたいんですね。初めからそうだったんですね。」

「昭和の時代に戻って何になるんだ。ぬるま湯につかった平和な時代に戻って何になる。武器を持っても戦うことのできない時代に戻って何になる。
それよりも、この時代で戦おうとは思わんか。
本心のままに生きようとは思わんか。
ここでは、それができる。」

「全然思いませんよ、そんなこと。思いませんよ。」

「お前には何も言う資格はない。戦うたびにこそこそ逃げ隠れするような奴に、何も言う資格はない。」

「俺は逃げ隠れしました。どうせ臆病者なんですよ。
でもね、男らしく死ぬのが一体何だっていうんですか。
英雄になって死ぬのが、そんなにいいんですか。
そんなことよりも、俺は女房と子どもと三人でいつまでも生きていたいよ。
俺はあの時代が好きです。
あの平和な時代が大好きです。」



この場面を境に、ハイテンションだった伊庭の顔つきは、破滅に向かう顔へと変わっていきます。
戦国の世に欲望を解放し、本心のままに生きていこうという盛り上がりに水がかけられる、絶妙なシーンです。

これらの、仮設された状況における人間像は、現実の僕の価値観を深く刺激してくれました。


ところが新作では、タイムスリップに陳腐な理由をつけることで、ラストをハッピーエンドに仕立てています。
おかげで、結局何だかよくわからない、中途半端な内容になりました。
勿論、面白くない理由はそれだけではありませんが、作品を軽く見せるには十分です。


作り手は、これで納得したのでしょうか。
前作の欠落したピースを埋めたとでも思っているのでしょうか。
だとするならば、それは細部への教条的なこだわりであり、全体を見通す視点の欠落でしかありません。

モチロン、作り手が別の主題を打ち出しているのならわかるのですが、どうもそういうことでもないようです。私の見方が浅いのであれば、どなたかご教示下さい。



そういえば・・・、
テレビ版と、『1549』の共通点として可笑しかったのが、どちらも

「俺たちは、この時代の人間じゃない。歴史に干渉することは、歴史を歪めることになる。」

などという、タイムパトロールのような台詞が出てくることです。
こんな台詞が頻繁に出てくるのは、やはり僕達が『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観て育った世代だからなのでしょうか。