2007(平成19)年5月


 いよいよ総選挙が始まります。「日本維新の会」と合流した石原慎太郎氏ですが、彼は一体何を目指しているのでしょうか。私はとっても心配なのです。石原氏が製作総指揮・脚本を担当した映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』で感じたものを、今だからこそほえ直してみました。お叱りも覚悟の上。今までで最高の「ほえる度数」五本です。こんな私を許してね。






過酷な時代を生きた、美しい日本人の姿を残しておきたい

 石原慎太郎都知事の、このメッセージから始まる映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を観にいってきました。 正直映画としては、あまり出来の良い作品ではありません(窪塚洋介くんも、変わってしまいました。『GO』の生き生きとした表情はどこへ行ってしまったのでしょうか)。
 ただ以外なほど、「美しさ」を強調している≠ニいう印象は感じませんでした。 むしろ特攻隊員たちを取り巻く理不尽さを、きちんと押さえていることには、好感さえ持ちました。

 では石原氏は、この映画のどんな生き方をもって「美しい日本人の姿」と言いたかったのでしょうか。それが僕にはピンとはきませんでした。というよりも、よくわからなかったというのが本音です。
 死を前にした特攻隊員や、それを支える人たちの厳粛さは、わからないではありません。彼らの生き方に唾を吐き、踏みにじるようなことは、決してしてはならないと思います。しかしこの映画を通しても、彼らの置かれた立場は、あまりにも理不尽で惨めに過ぎるのです。
 特に、機体の故障のために何度も帰還を繰り返す田畑少尉(演じるのは筒井道隆)の死に方は、哀れでした。 整備不良の機体に無理やり乗せられ、あえて飛び立たされ、そして墜落した彼の姿は、美しさの欠片もなく、ただ悲しくて虚しいものでしかありませんでした。
 あれは死んだのではなく、殺されたのです。
 彼は誰のために、死へと向かったのでしょうか。 国のメンツ、上官のメンツのためにのみ殺されたのです。 いわば、次の虚しい死者を生み出すために殺されたのです。

 上官からの命令が、いかに空疎で粗雑なものであったかは、この映画でも十分に描かれています。その空しい命令に従わざるを得ない人たちの、どこが美しいのでしょう。この映画を見て、僕は彼らを美しいとは思えませんでした。ただ悲しかった。そして哀れでした。だから、二度と繰り返さないことが、同じ死に方をする人間を生み出さないことが、彼らへの敬意だと思いました。
 なのに、石原氏はなぜ彼らを美しいと言うのでしょう。 どうして彼はこの姿が美しいと言えるのでしょう。 同じ映画を観ながら、その違いは一体どこにあるのでしょうか。

 ひとつだけ、思い当たることがあります。 死にたくなかった田畑少尉も、死ぬことを志願し飛び立った若者たちも、共通するのは、「命ぜられたことは、どんな理不尽なものでも耐え、甘んじて受ける」という態度です。確かに私も、「耐えること」「待つこと」「受け止めること」は、現代において失われた美徳だと思います。
 しかし…しかし、石原氏が彼の立場において、この態度を美しいと感じ、それを伝えようとするのであれば、それは犯罪的な行為でしかありません。
なぜなら、彼は決して行かされる者の立場には立たないのですから。彼は、常に行かせる側にいるのです。

 彼らは、本当は行きたくはなかったのです。 そして、行かせたくなかった者もたくさんいたのです。 しかし、理不尽な命令≠ニ場の空気≠フ中で、行かざるを得なかった。 その限られた状況の中で、命を輝かせようとするしかなかった。
 それを行かせる側に立つ者が、「命令がどんなに理不尽であっても耐え、甘んじて受け止めることが美しい日本人の姿である」というならば、それはもう暴言でしかないのです。
 もし僕の推論が当たっているとするならば、こんな映画が「美しさ」の名の下に公開されている現状は、なんと悲惨で、哀れで、そして滑稽なのでしょうか。 あまりにも傲慢であり、まさに死者への冒涜だと思います。


 この映画は、タイトルを変えた方がいい。
 「君は、俺のためにこそ死ににいけ」
 そして、彼は涙を流すのでしょう。 自分のために死んでいってくれた人々を、顕彰し、敬いながら。 もしかすると、実は彼が「美しい日本人」だと思っているのは、そうやって涙する自分の姿なのかも…。そこまで、思いたくはないのですが。■