2007(平成19)年5月 ミクシィ 

※ 私は子どもの頃からコンプレックスが強かったものですから、なかなか自分ときちんと向き合うことができませんでした。挫折を経験した中で、本当に真宗と出遇えたことで、自分ともきちんと出遇うことができたように思えます。ですから、コンプレックスの裏返しのような「プライド」や「誇り」の主張を見ていると、かつての自分を見ているようで、切なくて。(いえ、どこかの政治家の先生というわけではないのですが・・・。)
 今回は、下ネタが多いので「ほえる」度数が四本つきました。でも、もしかしたら一番イキイキとした表現になっているのかもしれませんね。

 
 
 
 
 
 
 

僕には、子どもが中学生になったら、ゼヒ薦めたい本があります。
別に親の好きなモノを、子どもに押し付けるというわけではないのですよ。
子どもたちに、僕が本当に伝えたいんだけれども、なかなかうまく伝えられないことを、この本なら教えてくれる。
そう思えるような、素敵な本なのです。

それは、京大名誉教授・森毅さんの『まちがったって いいじゃないか』(ちくま文庫)と、僕の敬愛する森達也さんの『いのちの食べかた』(理論社よりみちパン!セ シリーズ)の二冊。どちらも、二者択一で決め付けるのではなくて、その間のグレーゾーンにある良い加減(いいかげん)≠教えてくれます。
それは「癒し」などという、「マヤカシ」にも似た怪しげなものとは、全く違うものだということは、言うまでもありません。
そして、何よりこの二冊の本には、弱者に対する愛を持て!というような強者の驕りもありません。 強い弱いなど関係なしに、お互いに敬意を持ち合うことの大切さが描かれています。
それってすごく大切にしたいことなのですが、なかなか生き様として子どもたちに伝えきれないもどかしさがあるものですから、その思いを本に込めて渡したいのです。



さて、そんな僕の薦めたい本<宴Cブラリーに、この度もう一冊、素晴らしい本が加わりました。浅草キッド・玉袋筋太郎先生のお書きになられた『男子のための人生のルール』(理論社よりみちパン!セ シリーズ)です。

タイトルに、『男子のための・・・』とありますが、どこかの誰かさんが好きそうな「男らしさ」や「美しさ」を描いたものではありません。
ただ、ただ、玉袋先生が「男」であったという、彼の身体知に基づいた本であるからに過ぎないのです。
しかもそれは、映画になるような美しい日本人という「男」たちではありません。巷で生き生きと、そして生々しく生活している「漢」たちが持つ魅力を、限りない愛と敬意で綴られている。それがまた素晴らしいのです。
モチロン上述の二冊に通じる本でもあるのですが、僕が特に感動したのが、この部分です。



「コンプレックスはあったっていい。それを「隠したい」って思うことも、人として当然だと思う。
でもさ、ほんとうは、コンプレックスって本人にとって、「隠す」ものではなくて、「向き合う」ものなんだ。」(『男子のための人生のルール』)



そうですよね。ほんとうにそうですよね。
コンプレックスって隠すものではなく、向き合うもの。
そして、それを友だちにさらりと見せることができるなら、



「他人のコンプレックスに対してだって、自然に振る舞うことができるようになる。「友だちなんだし、あいつのために不躾な言い方はしないでおこう」ってシンプルにルールを持てる。ヘンに腫れ物にさわるみたいにしないけど、でも「お互いコンプレックスってあるよなあ。わかった、隠さないでいてくれたことが嬉しいんだから、ボクだってそこには突っ込まない」ってね。」(同)


素敵ですよね。そんな関係って、すごく豊かで温かいですよね。また、その比喩が良いではありませんか。


「要するに、思春期の心の持ち方をチンポにたとえるとすれば、実際にキミの股間にあるのが真性包茎であったとしても、男子の心の中に必ずあるといわれている、インナー・チンポがムケてるかムケてないか。
キミの心は包茎なのか、ズルムケなのか。それが問題なんだ。」(同)




僕は、いろんなことに対してコンプレックスが強く、そのくせ妙にプライドだけは高かったので、逃げたり隠したりで、自分と向き合うまでにかなりの遠回りと大きな挫折が必要でした。(その分、向き合えたときに開けた世界の大きさは、感動的ではありましたが。)
子どもたちに、僕のような遠回りをさせたくないということではありません。
苦悩と葛藤は、人生の大切な栄養素です。
ただ、向き合えないままに、逃げ回るのは空しいことだということ、向き合う先に広がる豊かな世界を伝えたいのです。



玉袋先生の比喩を読んでいると、ギャンブラーであり作家の森巣博さんがかつて、戦後の日本論・日本人論を絶妙な譬えで素描したことを思い出しました。



「まず、「国体」ナショナリズムの呪術的文体を駆使した、数多くの和製「日本人論」は、敗戦によって完全に破綻しました。/和製「日本人論」の復活は、日本が朝鮮戦争の特需景気で、経済力にある程度自信をつけはじめたころのことです。1949年、文化国民主義者である和辻哲郎の『風土』が再版されています。その後「経済成長右肩上がり神話」を背景に、無数の日本人論が出てくるわけですが、/和辻哲郎以降の日本人論は、一貫して「俺のちんぽこ大きいぞ論」でした。

それがバブルと共に見事に破綻するわけです。
そうすると今度は、90年代を代表する「俺のちんぽこは硬いぞ論」が出てきた。それが湾岸戦争の経験を通した藤岡信勝あたりの説につながるわけです。ところが、ちんぽこの硬さなどというものは不定である。昨夜のふにゃちん、今朝のこちんこちん、という体験は、おそらく男性のほとんどがしているわけです。そこで最近出てきたのが「俺のちんぽこは古いぞ論」/。ちんぽこの大きさや硬さなど、どうでもよろしいと、いい歳したオッさんたちがなぜ気付かないんでしょうか。つまり自信がないんですなぁ。」
(『ナショナリズムの克服』姜尚中×森巣博 集英社新書)




多くの政治家や大人たち、そして若者たちも、大きさや正しさ、美しさを主張しているようです。でもそれは、どこまで信頼に足る発言なのでしょう。
僕にはそのほとんどが、コンプレックスからの逃避でしかないように感じられてしまうのです。(歴史認識については、特にそう思います。)
ならば、子どもたちだけではなく、今の僕たち自身にとっても、玉袋筋太郎先生の言葉はまさしく金言と言えるのではないでしょうか。



「オレの友だちのお父さんにだって、気持ちのズルムケた人がいた。/ガキの相手だから自分もそこそこ手を抜くとか、そういうことがまったくないっていうのが、汗まみれの顔から伝わってくるわけ。野球の後、同じ湯船で汗を流しながら、ああ、このおじさんとオレらの関係もズルムケだなあ、あいだを隔てる「皮」がないや、なんて思ったことあるよ。

なにより、オレが師匠として/ずーっと仰ぎ見ている「ビートたけし」っていう人も、やっぱり、とんでもなくムケている存在なんだ。
そのムケかたに、どうしようもない思慕と憧れ、尊敬の気持ちを抱かずにはいられないこのオレは、「心のチンポ」がまだ仮性包茎くらいなのかもしれないなって思う。/でも、「よーし、これからまだまだムケてやるぜ!」っていう気持ちを大人になっても持てるって、すごく幸せなことなんだよな。」 (『男子のための人生のルール』)




僕にも親鸞という師匠がいます。この人がまたズルムケにムケている人なのですよね。
僕が親鸞師匠みたいにズルムケにムケることができるかというと、正直自信はないのですが、でも「これからまだまだムケてやるぜ!」と悪戦苦闘する姿なら、子どもたちに見せることができるかもしれません。
それって、国旗に頭を下げたり、国歌を歌うことよりも、すごく素敵な教育ではないでしょうか。そんな思いになりました。



(ちなみに、紹介したのは僕が特に好きな部分のみ。決してすべてのネタをばらしているわけではありません。まだまだ素敵な言葉が、たくさん込められた本です。ゼヒ一読を。)■