2007(平成19)年10月


 今年の夏は、例年よりも慌ただしいものとなりました。お盆が過ぎても、ちっとものんびりできません。いろんな役職がまわってきて、会議や調整に追われていることも大きな理由の一つあるのですが、どうやら気忙しさの本当の正体は、自分の心にあるようです。もう少し、時間の使い方や心の方向を考えてもいいのかもしれません。ということで今回は、忙しさを超えてホッと一息ついたときに書きました、マンガ評を掲載いたします。最近は本を読んでも、「読み終えた!」という達成感ばかりで、本を「楽しめた!」という気にはなかなかなりません。それがマンガであってもです。心貧しい生き方をしているなぁとガッカリ。こんな文章が書けるくらいの余裕を、心に持ちたいものです。






 お盆・お彼岸・子どもの運動会等々が終わって、一区切り。
私、忙しさの山が越える度、自分へのご褒美として、マンガの全巻セットをプレゼントすることに決めているわけであります。古本屋を巡り、お得な品を吟味して。 ということで今回は、この夏に購入しました作品の感想をいくつか。


【『D-LIVE!!』全15巻 皆川亮二】
あらゆる分野のスペシャリストを集めた、国際的人材派遣会社“ACE”のスーパーマルチドライバーの物語。 主人公斑鳩悟は、普段はただのボーっとした性格の高校生だが、どんな乗り物も完璧に乗りこなす運転の天才。

「お前に生命を吹き込んでやる!!」
「お前に魂があるのなら応えろ!」

彼は、マシンを生命あるものとして認め、尊重し、その能力を最大限に引き出そうと向かい合う。
 最近本屋に行くと、『思いどおりに他人を動かす交渉の技術』『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』などという、相手をねじ伏せ、思い通りに操ろうなどという傲慢な本が目に付く(橋下弁護士なる輩など、その象徴的なものだ。彼らは、自分の思いがすべて正しいとでも思っているのだろうか)が、斑鳩悟のアプローチはそれとは全く異なる。
 まさしく人間をモノ扱い・道具扱いしていく有り様へのアンチテーゼと捉えると、また面白い。 皆川作品の金字塔、名作『ARMS』には及ばないが、なかなかの秀作。楽しめた。


【『オールドボーイ ルーズ戦記』文庫版 全5巻 土屋ガロン、嶺岸信明】
 ご存知、チェ・ミンシク主演・パク・チャヌク監督で、第57回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した韓国映画の原作。 いやぁ、これは凄い。正直、映画が色褪せた。
 犯人の深い絶望、そしてその向こうに開かれた世界。 彼はその世界に憧れながらも、拒絶し否定する。 その世界を認めることは、彼の人生そのものを否定することだから…。 犯人の苦悩の深さが、この作品の深さでもある。

 苦悩の深さに差はあれど、自分の積み上げてきたものを否定することは、誰しも認めづらい。 しかし、握り締めたものを手放すことで広がる世界があることが、あまりにも語られない。 そんな時代であることが、悲しくもある。


【『修羅の門』コンビニ版全15巻、
 『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』現在15巻まで出版 川原正敏】
 「陸奥圓明流」の継承者陸奥九十九の活躍を描く『修羅の門』は、総合格闘技ブームの先駆けとなった作品。思わず時代を感じてしまった。『修羅の刻』はその外伝的作品であり、陸奥九十九につらなる歴代の「陸奥圓明流」の継承者を描く作品。宮本武蔵や源義経・織田信長・坂本龍馬・柳生十兵衛といった歴史的人物に関った陸奥の人々を描いている。

 川原正敏という作者は、器が大きくて、底が深い(いや、底がない)人物を好んで描く。現在月刊少年マガジンに連載中の『海皇紀』のファン・ガンマ・ビゼンなどは、まさしくその典型。この作品もまた面白い。 ただ、それに反してというべきか、だからこそというべきか、作者自身は非常に繊細で、弱く、優しい人物に違いない。
 『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』には、必ず作者あとがきがある。それを読むと、作者がどれだけ資料をあたり、読み込んだ上で描いているかのかが、垣間見える。多くの説を念頭に、敢えてこの説を採るというスタイル。当時の武具の資料を細かく調べ、構造から理解した上で描く。漫画だから、そこまでしなくてもと思うんだけれども、凝り性というか、自分自身に納得できないのだろう。
 ところが、笑ってしまうのが、こんなエピソードだ。

「例えば兜のてっぺんから出ている黒いもの…あれはあれは烏帽子が天辺の座という穴から出ている状態で、それによって当時の兜のぐらつきをふせいでいたというもの。ちなみに、鎌倉時代後期以降になって髪をたらし烏帽子に鉢巻をする様になったとの事。つまりテレビなどで鉢巻きをしているのは映像的に見映えがするから…らしいのだが、/ファンレターに書かれるのである。『本当は○○らしいのですが、川原さんのも私は好きです』…と。いや、好きだからいいんです、いいんですが…ちょっと悲しいのですよ。『本当は○○〜』の本当というのがお父さんに聞いた、テレビで見た…だったりするから。お父さんに負けるのはまだしもテレビに負けるのは悔しい…よなぁ。」(『修羅の刻』第8巻作者あとがき)

 批判の根拠が「お父さんに聞いた」「テレビで見た」というのは思わず噴き出してしまう話だが、僕自身が振り回している「『本当は○○〜』の本当」というのは、一体何を根拠にしているのかを、もう一度見つめ直してみないとなぁ…などと考えもした。 デリカシーのない態度が、どれだけ人を傷つけるのかを、もう少し考えてもいい。
 川原正敏の優しさ、繊細さは、こんなところにもあらわれている。

「義経=チンギス・ハーン説というのがある。/日本人としてはおもしろい話である。今回の『義経編』を描くにあたってちらりと頭をよぎった事がある。が、すぐにその説を一部にせよ取り入れることはやめた。 失礼だからである。モンゴルの人たちに…。」(『修羅の刻』第10巻作者あとがき)

 安易におもしろがる態度が、人を傷つけることを川原正敏は知っている。 この繊細さと、川原が描く器が大きくて、底が深い人物像は、相反しているのだろうか。 川原は自分が持っていないものを、憧れとして作品の登場人物に投影しているのだろうか。 確かに、そういう部分はあるのかもしれないが、決してそれだけではない。
 僕の尊敬する宮城という先生に、こんな言葉がある。

 「人間の大きさは、何を為したかではない。
  どんな世界と出遇っているか。
  その出遇っている世界によって、その人の大きさは決まるのだ。」

 自分がいかに知っているか、技術を持っているか。何を為してきたか。積み重ねてきたか。 そのことで、どれだけ人を見下せるか。 そんなことが、人間の大きさを決めるのだろうか。
 川原の繊細さは、想像する他者の多さでもある。 大局を見ながらも、一人ひとりへも思いを寄せる。 まさに川原の出遇った世界の大きさ・豊かさが、川原作品の人間の大きさを成り立たせている。 器が大きいこと、底の深いことは、繊細さ・優しさ抜きに成り立つものでは、決してない。 そんなことを思った。 ■