2015(平成27)年9月 大乗9月号『みほとけとともに』 
 
 西本願寺より発行される月刊誌『大乗』の「みほとけとともに」コーナー、第二弾です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

今年度より、市の教育委員になりました。就任早々中学校の教科書選定に携わり、久しぶりに教科書を読みました。特に歴史や公民には興味深く目を通しましたが、この興味が学生時代にあれば成績にもつながったのではと思うと残念でなりません。

しかし改めて歴史教科書を読んで、人間の歴史とは愚かな「過ち」の歴史なのだと再確認した次第です。いえ、先人を蔑んで言うのではありません。歴史的な状況を無視し、今の時代から決めつけ、切り捨てることは傲慢な態度です。何よりも、私も失敗だらけの人間なのですから、同じことのくり返しにならぬようにと学ぶことこそ、先人への敬意の表し方ではないかと考えさせられたのです。


ところが今や、このような考え方を「自虐史観」という人がおられるようです。でも、過ちと向き合うことは恥ずかしいことではないはずです。第一、過ちを犯した先人は敬えないのでしょうか。それこそ失礼です。何より、自分は失敗しないと思っているのなら、あまりにも傲慢です。それに、失敗ができない社会って生き辛いと思いませんか。そんな世の中を作る方が、よほど「自虐的」です。




さてここで、クイズをひとつ。「既に造った罪(巳造業)」と「これから造る罪(未造業)」、どちらが怖いでしょう。答えは「これから造る罪」です。なぜなら、どんなに悪いことでも既にしたことは、一つの形をもっています。しかし、これまでどんなに立派なあり方を誇っても、次の瞬間どんな自分が飛び出すかわからない、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(歎異抄)、縁あれば何をしでかすかわからないのが私たちだと教えられるのです。


 2003年長崎県佐世保市で、12歳の少年が4歳の少年を殺してしまうという事件がありました。当時、うちの子どもが3歳と5歳でしたから、怖ろしさに身震いしました。その際、当時の大臣が「加害者の親は、市中引き回しの上、打ち首にすればいい」という発言をされました。

 勿論、同じ歳頃の子どもの親として、被害者の親御さんがそんな思いを持つことはわからないではありません。しかし私たちは、被害者の親になる可能性もあれば、加害者の親になる可能性もあるのです。だから「うちの子は大丈夫か」という不安の中で「オレの子育てはこれでいいのか」と悩んでいるのです。TVの時代劇ではあるまいし「市中引き回しの上、打ち首獄門」ではすまない問題だからこそ、立ちすくんでいるのです。根はもっと深いはずなのに、表面だけで「これにて一件落着!」とはいかないでしょう。

 被害者の親御さんならまだしも、大臣の発言は安易な爽快感を求めているようでガッカリしました。しかし十年以上たった今でも、同様の事件が起こる度に吊し上げ、断罪、市中を引き回すような報道は数多く、賛同の声は増えるばかりです。


 親鸞聖人が尊敬され、道しるべとされた聖徳太子は「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともに凡夫ならくのみ」(憲法十七条)と言われています。ごく当たり前のことです。でも、とても大切で、しかも見失いがちなことでもあります。

親鸞聖人在世の頃、人々は奪い合い、傷つけ合い、時には殺し合いながらしか生きていけないような時代でした。しかし聖人は「何と残酷な奴らか」と見下すことはされませんでした。「人間とは、縁あれば何と怖ろしいことをしでかすのか。そして、この私も同じ人間なのだ。」と自らの姿を見出し、同じく等しく救われる道を求められたのです。まさしく人間の弱さ、愚かさ、悲しさを深く受けとめられた歩みであり、同時に阿弥陀様の慈しみの光に包まれた歩みでもありました。その姿に私は、本当の優しさと豊かさを感じるのです。

 仏教では、迷いを「無明」とあらわします。しかし、暗闇の中でどこへ行けばいいのかわからないという迷いではありません。わからないのなら問い、聞こうとします。そうではなく「何でも知っている、分かっている闇」をいうのです。迷っていることに気づかず、自分を振り返ることもなく「私は大丈夫だ」という確信に満ちた迷いの姿が「無明」なのです。だからこそ闇は深いのでしょう。親鸞聖人はその姿を「無明の酔ひ」(親鸞聖人御消息)、お酒に酔った姿に譬えられました。そして、お念仏に込められた願いを深くいただく中でこそ、酔いが自覚され「すこしづつさめ」(同)ていく身に育てられるのだと。



 「過ち」の歴史から学ぶことは、先人を蔑むことではありません。しかしそこには、阿弥陀様の光に照らされた「ともに凡夫」のまなざしが必要なのでしょう。そして、常に自らを振り返る営みも。でなければ「無明の酔ひ」は、なかなか醒めそうにありません。