2014(平成26)年4月 山口新聞『東流西流』 
 
 
 
 

 

ある保育所では一つの問題を抱えていました。親のお迎えが遅くなることがあるのです。親が来るまで保育士が一人居残らなくてはなりません。この問題を解決するために、遅刻する親に対し「罰金」をとることにしました。

 すると、予想に反して遅れる親が増えたというのです。それまで後ろめたさを感じていたのが、お金を払うことでサービスとしての「料金」へと感覚が変わり、痛みを感じなくなったのがその理由だとか。

 「罰金」には、やめて欲しいという願いが込められています。しかし、それを「料金」とした時、願いは軽々しく扱われることになります。お金を払えばいいんでしょという考えは、お金さえ貰えればいいという価値観の人にとっては有効かもしれませんが、そうでない人には迷惑で傲慢な態度でしかありません。


 痛みに麻痺した時、私たちは躊躇いを失くします。自分を正当化する理屈を作り、安易に振り回す時、他者の立場や価値観の違い、悲しみや願いを無視し、平気で踏みにじることができるのです。笑顔のままで。優しいままで。

 親鸞という方は、安易な正当化から一番遠くに身を置き、むしろ痛みや躊躇いを、生涯大切にされました。お金さえ払えば全てが正当化されるかのような時代だからこそ、その生き様が、深く私に問いかけて下さるのです。