2004(平成16)年8月号 



  お盆の季節がやってまいりました。身内の方を亡くされて、初盆を迎えられる方もおられるかと思います。昨年から、私の連れ合いは、お父さんとお婆さんを亡くしました。私も大学時代からの仲の良い後輩との悲しい別れがありました。今年が初盆となります。

 以前、宮城 という先生から、
「失った悲しみの大きさは、与えられていたものの大きさである。」
という言葉を教えていただきました。本当にその通りだなあというのが正直な思いです。ただ、ただ、うなずくばかりです。
 しかし「こんなにもたくさんのことを与えられていたのか」という驚きは、裏返してみれば、「失わないと気づけないのか」という私自身への驚きでもあります。それだけ日頃から、当たり前のような顔で、大切なことを見落としながら生きているのでしょう。


 親鸞聖人は、私たちのものの見方を「牛羊眼」牛・羊のごときの眼とたとえられました。聞く所では、牛や羊は自分の鼻先しか見えないのだそうです。それはそのまま、毎日の生活に追われ、目先のことに振り回されている私の姿と重なります。それは、与えられているものの大きさを見落としながら生きている姿なのかもしれません。

 ただ親鸞聖人は、悪口のつもりで「牛、羊のごときの眼」などと仰っているわけではないのです。悪口に使うなんて、それこそ牛や羊にとっては迷惑な話ですから。
 これは冷静な状況分析です。その見えていないという自覚のもとに、常に想像力を働かせて物事に相い対する。目には見えなくとも、そこに込められた人の想い、いのちのつながりに心を寄せていく。仏教が教える「生きる」とは、そのような謙虚で、かつ新鮮な歩みなのだと思います。
 お盆のご縁を通して、もう一度亡くなられた方から、与えられていたものを思い返してみようと思います。そこから今の生活を振り返り、大切なことを見落としていないか、足を止めて考えてみようと思います。■