2004(平成16)年11月号 



 いやはや、本当に凄い台風が続きました。皆様のお宅はいかがでしたか。家屋や田畑にも大きな被害が出ていると聞いております。心よりお見舞い申し上げます。
 極楽寺は、本堂の下り棟、講師室の棟瓦、平瓦に少し被害が出たくらいでした。しかし今回ばかりは自然の恐ろしさ、そして偉大さを思い知らされましたね。あの風の中では、人間とはなんとちっぽけな存在かと感じたことです。

 藤田省三という方は、「山というものは、本来厳しさと優しさというものが共在している場であった。山のおかげで私たちはそこからいろいろと恵みを受けている。同時に山は、一歩まちがえば命を奪われるほどに、非常に恐ろしい場所でもある。そこから人々は、決して山をあなどらない、山の前に謙虚であることを学んできた。ところがその山に観光道路が頂上まで通されたことによって、山は決して危険なものではなく、安全な遊園地の延長になってしまった。」と、自然を自分の気分を広げ、自分の気分にかなう場にしてしまったことで、自然は命を共に通わしながら生きる存在ではなく、人間の欲望を満たすための道具になってしまったといわれます。
 そうして私たちは、謙虚に頭を下げたり、その大きさを深く身に感じることを忘れてしまったのではないでしょうか。特に都会に出ると、それを痛感します。

 考えてみると、私たちは自然だけではなく、人間関係さえも役に立つか立たないかのものさしで見ているのではないでしょうか。そのような関係には、出遇いの喜びも、感動も、そして悲しみもあるはずがありません。あるのは苛立たしさと虚しさだけのような気がします。それはそのまま今の殺伐とした世の中を象徴するような言葉でもあります。

 手を合わせ、頭を下げる心のみが、再び相互の関わりを呼び起こす唯一の道なのではないかと、サッシを叩く風雨におびえながら、考えたことでした。■