2004(平成16)年12月号 



 浄土真宗のお坊さんの言葉を二つ紹介します。
 ひとつめは百日間の寮生活を終えた人の言葉。二人部屋で百日間の寮生活は、人間関係がこじれると泥沼ですね。ぞっとします。彼はこう言ったそうです。
「あんな奴とだけは、一緒にお浄土に往きたくない」と。
まあ気持ちはわからなくはありませんが。

 二つめの言葉は、僕たちが嫌な事ばかりいう人の陰口を言っていたとき、その輪の中にいた先輩が最後に言った言葉です。
「あんな奴でも、一緒にお浄土に往かなくてはならんのやなあ。」
 よく似た言葉です。でも、この二つの言葉の質は全く違います。前者は自分の想いを優先し、後者は仏さまの想いが優先されています。

 私たちは人間ですから愚痴も出るし、争いもする。でも最後のところでは仏さまの想いを優先しないと、ブレーキをかけるのが誰もいなくなっちゃいます。私たちの想いは暴走すると、簡単に人を傷つけてしまうのですから。そして自分の大義のためには、仏さままで利用しかねないのです。考えてみれば宗教戦争も、そんなところから始まるのかもしれません。
 ならば些細なことだけれど、言葉を少し変えてみることから始めませんか。それが大切なことを呼び起こすきっかけになれば、うれしいことではありませんか。

「聞いた仏法が邪魔になれば、身についた証拠である」
誰の言葉だったでしょうか。うなずかされます。■