2006(平成18)年6月号 



 四月より、書類上では住職となりました。しかし、まだ名前だけの見習い住職ですから、皆さんのお育てをいただきながら歩んでいきたいと思います。ご指導よろしくお願い致します。

 さて、代が変わると、たずねられるのが呼び方です。「どう呼べばよいのでしょうか」と。
 前住職は、たいてい《老院(ろういん)さん》《前住(ぜんじゅう)さん》と呼ばれることが多いようです。
近頃「老」「古」というのは、あまり良いイメージがないようで、「若」「新」がもてはやされているようです。でも、そんなことはありませんよ。民主党の偽メール問題などは、若さゆえの愚かさからのことでしょうし、その後同党の国会対策委員長になられた渡部恒三さんの穏やかな風貌としたたかさは、経験を重ねたゆえの重みが感じられました(黄門さまというあだ名もつきましたね)。

 お釈迦様も、こう仰っておられます。

 いのちの事実に気づかぬ者たちは、自分自身、老いるもの・病む者・死ぬ者であり、老いること・病む こと・死ぬことを避けられない身でありながら、他人が老い・病み・死ぬのを見ると、自分のことは見過ごして、とまどったり忌み嫌ったりしている。
 実は私自身も、/避けられない身でありながら、他人/を見て、とまどったり忌み嫌ったりすべきであろうか。いや、それは決して正しいことではない、と。私がこのように自身を省みた時、若さに対する虚しい誇り、健康に対する空しい誇り、生存に対する空しい誇りはまったく消え失せてしまった。
                  (『アングッタラ・ニカーヤ』)

 「子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」という言葉もありますが、若さを誇り、老いを蔑む者は、自らの人生を蔑む者だと言えるでしょう。老いも若きも、互いを敬いながら生きる、それが仏教の生き方なのです。■