2007(平成19)年8月号  



 『TOMORROW/明日』(監督 黒木和雄)という映画があります。舞台は長崎。どこにでもありそうなささやかな一日が、丹念に静かに描かれます。そこには、結婚があり、生命の誕生があり、愛と別離がありました。
 その翌日、まぶしいほどの青空。絶好の洗濯日和。空に、何か白く小さなものが光ります。地上では、赤ちゃんの誕生を祝う家族の笑顔。風になびくきれいな花。楽しく遊ぶ子どもたち。淡々とした日常ではありますが、かけがえのない、尊く、そして大切な営み。
突然、青空に一瞬の閃光が走りました。次の瞬間、画面にはキノコ雲が広がり、映画は終わります。
 そうです。この映画は、原爆が投下された長崎の「昨日」を描いたものなのです。タイトルの「明日」とは、明日原爆によって奪い去られる人々の営みを、観る者に突きつけるものでした。

 もうすでに、過去のものとなったのでしょうか。久間元防衛大臣の「原爆投下は仕方がない」発言。本当にそう思われていたのか、別なことをおっしゃるのに喩えとして使われたのかはっきりしませんが、それにしても、あまりにも軽率だとしか言いようがありません。
 それに続いて、アメリカのロバート・ジョゼフ核不拡散担当特使が、広島、長崎への原爆投下について、「さらに何百万人もの日本人が命を落としたであろう戦争を終わらせたという点に、大半の歴史家は同意すると思う」と発言されました。
 政治家とは、大所高所からものを言う傾向が強く、またそれは本当に大切なことではあるのですが、しかし同時にその下にいる一人ひとりの想いへ心を向けているのかどうか。それも本当に、本当に大切なことなのだと思います。


 映画『TOMORROW/明日』の冒頭には、次のような言葉が紹介されていました。

  人間は 父や母のように  
  霧のごとくに 消されてしまって 
  よいのだろうか  (若松小夜子「長崎の証言5」より)

 僕には想像もできないような悲しみと怒りが、静かにそして深く込められた言葉です。この言葉の前では、立ち尽くし、口ごもるしかない。そんな深重な言葉です。

 近頃では、こんな深くて重い心を、あたかも「わかった」かのようにして、安易に大所高所からモノを語る軽薄な傾向が強くなっているような気がします。人事ではありません。そんな姿を仏様の眼から見たら、どう映るのか。僕自身が問われます。


   一人ひとりが営んでいる、ささやかでかけがえのない一日の尊さ、そしてそれを奪われることの悲しみを、深く受け止めようとしない者を、「愁悩を生ずる」こと無き者(『教行信証』坂東本「悉知義の文」)と言います。深く迷い、迷っている自分に気づきもしない。
  僕も「大所高所から見ると・・・」などと、大義名分を振り回し、気がつけば「愁悩を生ずること無き」場に身を置いているのかもしれません。だからこそ、仏法を通して我が身を見つめていかねばならないのです。
 そして、そんな「愁悩を生ずること無き者」をこそ、一番悲しみ、心にかけておられる仏様が阿弥陀如来なのです。その心を深く受け止めなくてはならないのでしょう。

 勿論私たちは人間ですから、大所高所の視点と、一人ひとりの営みを、同時に大切にすることはなかなかできません。しかし、そこに深い悲しみの心を持つかどうか、深く受け止めるかどうかで、違う「明日」が生まれてくるのだと思います。■





 

  • 監督 ‏ : ‎ 黒木和雄
  • 出演 ‏ : ‎ 桃井かおり, 南果歩, 仙道敦子, 佐野史郎