2008(平成20)年11月号




 藤澤量正という先生が、「人は自分が認められていると思われたとき、その言葉を素直に受け取ることができますが、その存在が無視されたとき、思いがけない行動に走るのは、少年であろうと、分別ある大人であろうと全く変わることはありません。人間社会において、人に認められるということが、強く生きる基本になっていると言ってもよいでしょう」と仰っておられます。
 本当にそうだと思います。猜疑のまなざし、人扱いされないようなまなざしで見つめられるのは、とても耐えられるものではありません。逆に、どんなに厳しい環境であったとしても、人として認められているという実感があれば、耐える力やヤル気、心の温もりも生まれるのではないかと思うのです。


 先日、テレビの人気タレントであり、弁護士でもある知事さんが、職員の仕事ぶりをビデオカメラで隠し撮りをしたというニュースが流れました。彼は、財政再建のために多くの施設を廃止する方針を打ち出していますが、隠し撮りをしたのはそのうちの一つの施設。いかに職員が仕事をしていないのかをビデオで撮影し、廃止への追い風にしようとしたようです。

 インターネットを見ると、「いつもどおり仕事をしていれば、何の問題もないでしょ。こんなことで騒ぐのは、やましいことがある証拠でしょ。」などという書き込みも数多く見られます。
  でも、実際に仕事ぶりを隠し撮りされたら、どんな思いになるでしょうか。四六時中気を張り詰めながら生きていくことなんて、余程の人しかできません。時には体調がすぐれない場合だってあります。あくびの一つも出るでしょう。もしそこに、猜疑のまなざしが向けられているとしたら・・・。僕なんかはかえってビクビクしてしまい、逆に失敗を重ねてしまいそうです。

 つまり、隠し撮りカメラの向こうにあるまなざしには、人間が本来持っているはずの愚かさや弱さというものが抜け落ちているのです。人間を単なる道具や機械のようにしか見ていない。

 そして、そのまなざしに共感する人が多くいるということは、それが当たり前のような世の中になっているということなのでしょう。これは、本当に怖ろしいことです。
 だからこそ、「大らかさ」や「ゆとり」、「思いやり」などという言葉が、死語になりつつあるのかもしれません。彼らは、そんなまなざしを向けられている人間が、どんな思いになるかなどということを想像することもないのでしょうか。

 「いつ隠し撮りされるかわからない」という歪んだ緊張感は、上司への媚を売るような働き方は生み出すかもしれません。しかしそんな歪んだ緊張感から、住民への温かなサービスが生み出されるとは、とても思えないのです。

 親鸞聖人は、「帰」という言葉をよく使われています。「雑行を捨てて、本願に帰す」「真実明に帰命せよ」など。この「帰」という言葉は、人間の事実に立ち帰ろうということです。阿弥陀如来の教えを通して、人間という存在のまことなる有り様に立ち帰ろう。人間という存在の愚かさ、弱さ、悲しさ、切なさを含めた、事実に帰ろう。その事実に根ざしているからこそ、親鸞聖人のまなざしは温かく深いのでしょう。そして聖人のまなざしが、多くの人の生きる力を生み出してきた歴史もあるのです。
  
 知事さんの下で働く職員数は、約八万六千人だそうです。その人たちはこれから、「いつ隠し撮りをされるかわからない」という猜疑心の中で仕事をしなくてはならなくなりました。これは、精神的にかなりしんどいことだと思います。■