2009(平成21)年4月号号外 



 いよいよ継職法要が近づいてきました。
 大丈夫でしょうか。大きな勘違い、ミスがないか、不安で一杯。私は現在、パソコンの前で、かなり追い込まれています。

 いや、自分で自分を「追い込んでいる」と言った方が正しいかもしれません。原因はパソコンです。便利になったことで、やれることも増えました。あれもできる、これもできると、安易に請け負ったり、可能性を広げすぎることで、逆に自分を追い込むはめになってしまったのです。
でも、それは何も私だけに限らず、今の世の中全体に言えることなのかもしれません。これまでなら、「仕方がないか」と受け止めざるをえなかったことが、科学が進み可能性が広がったことで、諦めきれなくなってしまいました。そのことが逆に、人間を振り回しています。

 身近な例で言えば、携帯電話ですね。普及したことで、逃げ場所がなくなり、休みの日も仕事から抜けきれない人たちをたくさん生み出しました。私たちが機械を使うのではなく、もしかしたら私たちが機械に使われているのかも。
 医学もそうですね。進歩したことで、死は遠のきました。生への可能性が大きくなることで、みんな幸せかというと、どうでしょう。「死」を受け止めることができずに、「生きる」ことさえ見えなくなった、そんな時代のような気がします。


 アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーは、「神よ、変えられないものを受け入れる平静と、変えられるものを変える勇気と、両者を見分ける知恵を与えたまえ」と言われています。
 人間の限界を知ること、「諦める」ことの大切さを見失うことは、人間自身を見失うことだと教えられる言葉です。仏教でも、「諦め」とは、実は「あきらかに見る」ということなのだと教えられるのです。

 自分の姿を、あきらかに見て、変えられないもの受け止めていく。変えられるものを変えようと、歩みを進めていく。そして、何が変えられて、何が変えられないものなのかを、常に仏様に相談しながら生きていく。そうしないから、自分自身を見失ってしまうのでしょうね。今だからこそ、痛切に感じている次第です。

 とにかくあと少し。悪い意味で「諦め」て、投げ出すようなことだけはしないように。■