2009(平成21)年6月号   
 


 一ヶ月以上経った今でも、未だに継職法要の余韻を引きずっています。まだまだ残っている写真やビデオの整理等はもちろんのこと、いろんな方々と法要の話をする度に、あの感動がよみがえってくるのです。

 本当に温かい法要になったと思います。特に、午後の法要で稚児宿当家の方々が阿弥陀様へお供えをする伝供≠ニいう作法を、ホワンシィ・コーラスの歌声の中で行ったことが、象徴的でした。普通はテープやCDで音楽を流すのですが、生の歌声はやはり違いましたね。生の音には、人の温もりがありました。
 梵鐘もそうです。今回の法要の梵鐘は、総代さんや世話人さん方が撞かれたのです。様々な人が関わり合うことで、血が通い、温もりが生まれてくるのでしょう。一人ひとりの温もりが、この法要全体を通して感じられたということが、僕にとっては本当にうれしいことでした。


 近頃は、この「温もり」がなかなか見えにくい世の中になりました。以前後輩から聞いた話なのですが、彼の会社の部署では、業務連絡をインターネットのメールでやりとりするそうです。6〜7人くらいの小さな部署。一声かければ、みんなに声が届くくらいの場所にいながら、やりとりはメール。 
 なぜこんなことをするのかというと、メールならば「私は、あなたにこの用件を伝えました」という証拠が残るからだそうです。メールを開封すれば、開封したことを知らせるメールが返信されるよう設定してありますから、「あなたも、この用件は確認しましたね」と証拠が残る。どこに責任の所在があるかをハッキリさせるために、そんなことをするのだそうです。責任の所在が明らかになったり、合理的なのはいいのかもしれませんが、殺伐として、乾ききっています。
 ところが、こちらの方が気楽でいいのだということなのでしょうか。それとも、ここまでしなくてはならないほど、信頼が失われた社会になっているのでしょうか。どちらにせよ、このような環境が、どんどん当たり前のように広がっているようです。

 勿論、人間同士の関り方は、難しいものです。ややこしい問題が出てきたり、すれ違ったり、時にはストレスを抱える場合もあるでしょう。しかし、そこに血が通ったときに、温もりが生まれてくるはずです。ここから信頼や出遇いというものが広がっていき、人生は深く、豊かになるのではないでしょうか。


 仏教では、世界の一切は直接的にも間接的にも、何らかの形でそれぞれ関り合っているのだといいます。その縁起の道理の上に、私は成り立っているのだと。ならば、殺伐とした関係は自分を傷つけ、温もりある関係こそが自分を育んでいくのでしょう。

 少しずつでも、お互いが顔を見ながら、関係に血を通わせていく。そんな歩みを大切にしたいと思うのです。■