2009(平成21)年8月号



  フィリピン・マニラ市の北に、ゴミの投棄場所ができました。以来マニラ市内のゴミが運び込まれ続け、山となりました。そのゴミが自然発火して、常に煙を上げていることから、スモーキーマウンテンと呼ばれています。
 貧しく、土地もなく、職もない人たちは、ここに捨てられたゴミからリサイクルできるものを探し出し、それを換金するようになります。その後、貧困の象徴≠セと国際社会の視線を気にした政府から、スモーキーマウンテンは閉鎖されましたが、ゴミを拾って生活をしていた人は、今でも近くにできた新しいゴミ捨て場で同様の生活をする状況が続いています。
 もくもくと立ち上る有毒の煙、鼻をつくにおい。不衛生で危険な場所でありますが、それ以外に働く場所がないのです。

 彼らの営みを撮り続けている、四ノ宮浩監督の作品『神の子たち』というドキュメンタリー映画を観る機会がありました。
 確かに悲惨な状況ではありますが、しかしそこに住む人たちは、「家族の絆」を重んじ、ひたむきに、胸を張って生きていました。ここでは、みんなが貧しい中にありながら、少しでも余分に持っている者は持たない者に、当たり前のように分け与えているという事です。だからここでは、飢えで死んだという事は聞ききません。
  
 四ノ宮監督が、ある日知り合いになった女の子に「幸せ?」と聞くと、その子は「いつも家族が一緒で、一日三回食べていけるから、幸せです」と答えてくれました。ある女の子は、「私は泥棒するぐらいだったら、飢え死にしたほうがましです」と言いました。



 

監督:四ノ宮浩
2001年/日本/105分

 

 一方、私たちの住んでいる日本はどうでしょう。モノは豊かになり、生活は便利にはなりましたが、分かち合う心、支えあう心はどんどん無くなっているのではないでしょうか。日本には別に食べたいわけじゃなく、欲しいわけでもないのに、万引きをする子どもたちがたくさんいます。大人にも増えているようです。理由は、「スリルを味わいたかったから」だとか。そして、そんな国を私たちは「先進国」と言い、フィリピンを「発展途上国」と呼ぶのです。一体何が先に進んだのでしょう。

 私は何も、貧しくなろうと言っているのではありません。貧しさが生む悲惨な状況は、私が想像する以上に過酷なものでしょう。ただ、モノの豊かさ、便利さばかりを追い求めて、大切なことを失った姿が、私たちなのではないかと思うのです。

 安田理深という先生は、仏教を学ぶとは「向下の道」であると言われたそうです。「向下」とは、「向上」の反対です。ただし、サボったり、怠けたりということではありません。
 「向下」とは、足元に帰る、人間の事実に帰るという意味です。私たちは、「向上」しようと、上を目指すことで、足元にある大切なことを見失っている。その足元に連れ戻させる働きを、仏法だと教えて下さるのです。


  長年アフガニスタンで、医療活動、井戸・水路の採掘と、現地に足を着けた活動を続けておられる、ペシャワール会の中村哲医師。彼は、アフガンの民と共に大地に抱かれた自分たちと、空から見下ろす米軍兵士を対比させ、このような文章を書いておられます。




  作業地の上空を、盛んに米軍のヘリコプターが過ぎていく。
  時には威嚇するようにして頭上を旋回して射撃音が聞こえる。
  けたたましくも忙しいことだ。
  我々は地上をうごめく蟻のように、ひたすら水路を掘り続ける。
  彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。
  彼らはいかめしい重装備、  我々は埃だらけのシャツ一枚だ。
  彼らは暗く、我々は楽天的である。
  彼らは死を恐れ、我々は与えられた生に感謝する。
  彼らは臆病で、我々は自若としている。
  同じヒトでありながら、この断絶は何であろう。
  彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。
  乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。
  自ら汗して、収穫を得る喜びがある。
  家族と共に、わずかな食べ物を分かつ感謝がある。
  沙漠が緑野に変ずる奇跡を見て、天の恵みを実感できるのは、
  我々の役得だ。
  水辺で遊ぶ子どもたちの笑顔に、
  はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは、我々の特権だ。
  そして、これらが平和の基礎である。
  元来人に備えられた恵みの事実を知る限り、
  時代の破局は恐れるに足りない。
  天に叛き人を欺く虚構は、必ず自壊するだろう。
  平和とは単なる理念や理想ではない。
  それは、戦争以上に積極的な活力であり、
  我々を慰める実体である。
  私たちはこの確信を持って、今日も作業現場で汗を流す。
             (『ペシャワール会報 No,88』 中村 哲)




  人間本来の幸せと喜び、生命の躍動を失いながら、「先進国」だと自称する歩みは、実は全くの方向違いではなかったか。今一度、地に足を着けていく、「向下の道」を歩まねば、上に向かって進めば進むほど、自分自身を見失っていくのかもしれません。


 今年のお盆は、故郷に帰る人、迎える人、共に亡き人を偲びながら、自分の足元に帰る機会にされてはいかがでしょう。それが、忘れている大切なことを思い出させてくださる「向下」の歩みなのです。■