2009(平成21)年11月号 



  民主党政権となって初めての国会が始まりました。これまで与党だった自民党が野党に、野党だった民主党が与党へと逆転したことで、どんなことになるのか注目が集まっています。
 ある方がテレビで、「ブーメラン国会」と評しておられたことが、妙に心に残りました。民主党には、これまで野党の立場で言ってきたことがそのまま返ってくる。自民党には、これまで与党の立場でやってきたことがそのまま返ってくる。自分のことはさて置いてということになると、発言がぶれるという指摘や無責任さがクローズアップされるわけですから、それぞれの質問・答弁にまさしく党の真価が問われてきます。
 ただし、それを指摘し合うだけでは、ただの中傷合戦にしかなりません。自分を問い直しながらも、生産的で前向きな議論にして欲しいものです。

 ところで、私の生活を振り返ってみるとどうでしょう。どうも、人事にして笑うわけにはいかないようです。言っていることと、していることが違ったり、発言がぶれることなど日常茶飯事なのかもしれません。私の言動は、政治家の先生のように新聞記事や議事録で残されているわけではありませんから、それを指摘されないだけではないかと考えさせられるのです。ただ人がぶれているのは、すぐにわかりますね。「この人、前に言ったことと全然違うじゃない」と眉をひそめながら、「そんなことに、いちいち目くじら立てるのも大人気ない」などと、黙って許すことで悦に入っていたりして。


 妙好人と讃えられ、生涯念仏と共に生きられた因幡の源左さん(1842-1930年)は、「年が寄ると気が短くなって、よく腹が立つようになる。人を許すことが大切なのだよ。」と言われた際に、
「おらは、まんだ人さんに堪忍して上げたことはござんせんやあ。人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだいな。」と仰ったそうです。
 人を許しているつもりの私が、実は許すよりも先に許されていた。それを受け止めていく態度から、懐の深さと言葉の重み、そして出遇いの豊かさが伝わってきます。こんな言葉の前では、「許してやっている」という態度の傲慢さや軽薄さが、恥ずかしくなってしまいます。

 私は何も「だから、人のことをどうこう指摘するものではない」と言いたいわけではないのです。こういう世界を通すからこそ、言葉は深く重いものとなるのでしょう。ブーメランのように、自分の言葉を自身に返していくことが、実は豊かな世界を開いていく。「念仏と共に生きる」とは、まさしくそんな営みなのだと教えられるのです。■