2011(平成23)年7月 山口新聞『東流西流』に掲載 
  


2011(平成23)年8月号  
 



 最近は、真宗の葬儀でも、「浄土」という言葉はほとんど使われなくなりました。たいていは天国か、「お眠り下さい」か。テレビの影響もありますが、「浄土」や「地獄」へのリアリティがなくなった時代なのでしょうか。

 以前、ある方の葬儀で、弔辞が読まれました。まだ定年前で会社にお勤めでしたから、上司の方、同僚の方からのお言葉は、亡き方の人柄が偲ばれる、感動的で心温まるものでした。勿論、役職名には配慮や気配りがあったようです。きちんと確認もされたのでしょう。
 ところが、「天国で、私たちを見守っていて下さい。」と言われた後に、今度は「安らかにお眠り下さい」と言われ、最後には「冥福をお祈りいたします。」と締められる。天国に行って見守って、安らかに眠って、今度は冥府に行かされたりと、亡くなられた人も大変だろうなぁと思いながら聞いておりました。役職名には配慮があっても、そういうことについては無頓着なんですね。
 私は、別に弔辞を読まれた方について、どうこう言うつもりはないのです。というよりも、こういう感覚が近頃では当たり前になりました。僕も、お寺とのご縁がなかったら、何も考えずに使っていたことでしょう。ただ、ふと思ったのです。亡くなられた人も、そして自分自身も、天国や、それなりにいいところに生まれると、当たり前のように思われている時代ではないかと。

 昔の人たちは、もっともっと、そういうことに対して真摯に、真剣に向かい合っておられたように思います。
 以前、「法然と親鸞」という舞台を観に行きましたら、法然上人の庵に集まる人たちが、「私は、地獄に堕ちるのでしょうか。」「人を殺す武士は」「生き物の命を奪う猟師は」「体を売るような仕事でしか生きられぬ女である私は」と、地獄を怖れ、阿弥陀如来の浄土への救いを求める場面がありました。やはり昔の人たちは、それだけ「地獄」や「浄土」というものをリアルに感じながら生きてこられたのでしょう。しかし、それは裏返せば、自分の人生に真剣に向き合うからこそではないかと考えさせられたのです。
 ところが、現代社会に生きる私たちはどうかというと、役職名なんかには敏感に反応しますが、自分の行き先、翻れば自分の生き様、自分の罪深さについては、どれだけ真摯に向き合っているのでしょうか。





 
 あるご住職が、友人の歯医者さんに、昔と比べてお寺に参拝者が少なくなったことを話すと、「地獄に堕ちるといっても、今はひとつも痛くないからなぁ」とおっしゃったそうです。歯が痛いのは我慢できないから、夜中でも叩き起こされることもある。しかし、自分の人生には、自分の罪深さには無頓着になっている時代だという鋭い指摘です。

 自分の人生を深く見つめ、自らの罪深さを正面から見つめられた方が、それでもこの私を包み、いとおしんで下さる世界として、「浄土」と出遇われたのです。自分の人生に無頓着に生きるならば、その出遇いの感動など、わかるはずもないのでしょう。
 「地獄」や「浄土」にリアリティがない時代とは、実は自分の人生へのリアリティを失った時代ではないのでしょうか。お盆のご縁を通して、もう一度、自分の人生を見つめ直してみようと思います。■