2011(平成23)年12月号 


 
 3月の東日本大震災は、自然の力の大きさを思い知らされました。復旧には、まだまだ時間がかかるようです。長い目での支援が必要ですが、どこかもう過去のことのようにしている自分に気づかされ、情けない思いもしています。ひとごとではありません。みんな、いつどうなるかわからない身です。こんな時だからこそ、「お互いさま」という言葉の大切さを噛みしめたいものです。

 しかし、本当に想定外の出来事でした。同時に、以前「極楽寺だより」でも紹介しました思想家藤田省三さんの言葉を思い出しました。

「山というものは、本来厳しさと優しさというものが共在している場であった。山のおかげで私たちはそこからいろいろと恵みを受けている。同時に山は、一歩まちがえば命を奪われるほどに、非常に恐ろしい場所でもある。そこから人々は、決して山をあなどらない、山の前に謙虚であることを学んできた。ところがその山に観光道路が頂上まで通されたことによって、山は決して危険なものではなく、安全な遊園地の延長になってしまった。」

 藤田さんは、自然を自分の気分を広げ、自分の気分にかなう場にしてしまったことで、自然は命を共に通わせながら生きる存在ではなく、人間の欲望を満たすための道具になってしまったと指摘されます。
 
 ならば、私たち人間の傲慢さこそが、自然の脅威を想定の外に置いてしまったのではないでしょうか。考えてみれば、魚を海産資源と呼び、樹木を森林資源と言い、人は人的資源、景色は観光資源と、すべてを経済の見方で、人間の持ち物のように考えることが当たり前になりつつある世の中です。そこには、自然の恵みをいただいて生きていくという謙虚さや、人間の限界を受け止める自覚は全くと言っていいほど感じられません。この人間の傲慢さが、本来恐れ、敬うべきものを想定外にしてしまったのでしょう。これも、ひとごとではありません。「私も、その人間の一人である」と深く自覚する生き方を、私は親鸞聖人から教えられました。
 もちろん、経済問題や景気回復は大切な問題です。しかし、私たちはもう気づいているはずです。景気が回復すれば、すべてが解決するというのは間違いだということを。一人ひとりが、自分の生き方を見つめ直すべき時に来たことを。


 毎日新聞(十月十日)のコラム『風知草』に、福島の原発震災をめぐる講演とインタビュー・座談で構成された『クロニクルFUKUSHIMA』という本が紹介されました。核心のメッセージは「こっちへ来て現実を見てみろよ」だそうです。そしてそのコラムは、以下の言葉で結ばれています。

「それはそれ、と言わんばかりに東京では経済成長と原発輸出が論じられている。間違っていると私は思う。」

 私もそう思うのですが、皆さんはどうでしょうか。親鸞聖人はどう思われるのでしょうか。■