2012(平成24)年6月号
 







極楽寺では、「毎日、お参りしましょう!キャンペーン」を始めました。朝晩、お仏壇の前で、阿弥陀様に手を合わせる。昔は、当たり前のように見られた光景が、今では珍しいものになってしまいました。その尊さを再確認していこう!というのが、その狙いです。

先日、『宇宙兄弟』というマンガを読んでいると、「ごちそうさま」と手を合わせる女性の姿を見た主人公が、「なんて幸せそうに、お昼を食す人だ―」と好意をいだくシーンがありました。確かに、手を合わせる姿は美しいですね。特に感謝する姿、尊ぶ姿というのは、本当に素敵です。
 ところが、お願いする手の合わせ方というのは、欲望が剥き出しで、あまり美しく思えないのは私だけでしょうか。勿論、切実な事情がある方を笑うわけにはいきません。人間ですから、願わずにはおれない場合だってあります。でも仏さまは、その心は受け止めて下さるのですが、かなえてはもらえないのです。残念ながら、お仏壇とはそんな場所ではありません。


 


歯医者さんによると、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいるそうです。合う人は、作ってもらった入れ歯がだいたい一発で合う。合わない人は、いくら作り直しても合わない。それは、別に口の形状に違いがあるからではなく、自分の本来の歯があった時の感覚が「自然」で、それと違う状態は全部「不自然」だから嫌だという人は、何度やっても合わない。それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できるというのです。確かに、絶対に合わない場合だってありますが、多少の違和感は許容範囲。あとは自分で工夫して合わせばいい。つまり、入歯を合わないものにさせているのは、「こうでなくてはならない」という固定観念(自分の思い)や、「こうありたい」という自分の願いだということなのでしょう。自分の思いや願いが、自分を苦しめる状況を生み出しているのです。
 「若くなければ」という思いは、「歳をとったらつまらない」という思いを、「健康でありたい」という思いは、「病気になったらつまらない」という思いを生み出します。仏教では、いくら美容液を使っても、どんな健康法を使っても、誰もが老い、病んでいく現実は変わらないと教えます。それどころか、その思いが自分を苦しめていくのだとも。
 あるカウンセラーの方は、「人からいじめられることは、つらいことだけれども、自分を自分でいじめることは、もっとつらいことだ」と言われています。私たちは、自分の思いで自分をいじめているのかもしれません。そして、思いや願いが頑なになればなるほど、ますます自分で自分を追い詰めていくのでしょう。

 阿弥陀如来という仏さまは、「あなたの願いが、本当にあなたを幸せにするのですか?」と、問いかけ、心配し、共に人生を歩んで下さる仏さまなのです。私の頑なな思いを、問い直し、柔らかくさせて下さるのです。そんな阿弥陀様の願いを聞き、自分の願いや思いを見つめ直す時間は、人間が生きる上において、本当に大切な時間ではないでしょうか。

 東井義雄先生は、阿弥陀様の願いを聞き開く歩みの中で、
  「老いの日には 老いの日にしか
   聞かせていただけない ご説法がある
   病む日には 病む日の ご説法がある」
  「雨の日には 雨の日の 老の日には 老の日の
   かけがえのない 大切な人生がある」
という世界と出遇われておられます。



 あるご住職が、お寺の境内でひなたぼっこをしていると、通りすがりの観光客の方が、「お参りしてもいいですか?」とたずねられました。「どうぞ、どうぞ」と薦めると、「このお寺は、何にきくお寺なのですか?」と質問されたそうです。この場合の「きく」とは、病気が治るとか、商売繁盛とか、学業成就といった「どんな願いに効くのか」という意味ですね。
 すると、そのご住職。こう答えられたそうです。

 「このお寺は、阿弥陀様の願いを聞くお寺なのですよ。」■