2012(平成24)年12月号  
 



近頃は、核家族が増えました。家族と言うのは、本当に大切な関係ではありますが、近すぎて、甘えが出て、かえってややこしいことになることがよくあります。他人だと距離がある分、遠慮も配慮もありますから冷静な対応もできますが、これが親子になると近すぎて、逆に感情が剥き出しになってしまいます。「友達に言われたら素直に聞くことができるけれど、親に言われたら、逆に受け容れることができない」とか。「よその子だったらそこまで言わないけれども、自分の子どもだから余計に腹が立つ」とか。そういうことって、ありますよね。

  昔は、一つの家に、たくさん人間がいましたから、その場その場でいろいろと役割が分担されていました。たとえば、お母さんに怒られたから、その晩はおばあちゃんの布団に潜り込んで寝るとか。家族だけではなくて、昔は近所のおじちゃんやおばちゃんとの距離が今より近くて、怒られたり、可愛がられたりということがありました。いろんな人間関係があるところでは、いろいろな形で役割が分担されていて、逃げ場もきちんと用意されていたわけです。ところが近頃はそういう場所がなくて、どうしても行き詰ってしまいます。何かクッションになるようなものが必要なのですが、核家族ですから他には誰もいません。では、そんな時にどうしたらいいのでしょう。

  藤場俊基という先生は、「そんな時に、お仏壇があるではないか、阿弥陀様がおられるではないか」と言われています。お仏壇の前に座ると、間ができる。ちょっと冷静になれる。自分をふり返ることができる。人に言われたら腹が立つことも、阿弥陀様の前では「そうかもしれないなぁ」と素直になれる。そんな場所があるということは、人間が生きる上で本当に大切なことだと思うのです。

かくなる私も短気なものですから、カチーンとくると言わなくても良いことを言ってしまい、後悔の念にかられることがよくあります。いつも近くにお仏壇があればと思うのですが、なかなかそうもいきません。ですから最近は、心の中でお念仏を称えるようにしています。お念仏に心を鎮めさせるご利益なんてありませんが、「なまんだ〜ぶ、なまんだ〜ぶ」と称えると、間がとれて我に返ることができる。逆にお念仏を忘れると、やはり我を忘れてしまい失敗するのです。(坊守いわく。「忘れすぎなんじゃない?」トホホ。その通り。でも、お念仏やお仏壇がなかったらと思うと・・・、そっちの方がおそろしいですよね。)

 

我に返ることができる場所。自分をふり返ることができる場所。誰もがその場を敬い、姿勢を正す場所。そんな場が家庭にあるということは、人間が生きる上で本当に大切ではないでしょうか。ところが現代社会に生きる私たちは、そういう大切な働きをもっている場を失いつつあります。そのような場を最も必要としている時代でありながら。それどころか、「そんなものなんていらないよ」と平気で思っているのではないでしょうか。

 現代社会は、自己主張の時代だと言われます。そのため自分の意見を主張する技術ばかりが求められ、自分をふり返ることや見つめ直すこと、相手の立場を思いやることができない人も増えたのではないでしょうか。我を主張することで我を忘れてしまう時代に、我に返る場所としてのお仏壇の働きを再確認していきたいと思います。■