2012(平成24 8月号)  
 
 
 
 
 

先日インターネットを見ておりましたら、「新しく家を建てるにあたり、両親から『仏間を作りなさい。お仏壇は私たちが用意するから』と、提案されました。まだ、誰も亡くなった人がいないのに、お仏壇は必要なのでしょうか。」という質問がありました。問いに対し、それぞれの方がそれぞれの立場で返答しておられるのですが、中の一人に「亡くなった人もいないのに、一体何をするつもりなんですかね。」という一言があり、ガッカリしてしまいました。おまけに、「ご両親は、同居を視野に入れておられるのかもしれませんよ。」といった、打算的なことまで書き添えられており、二重の脱力感を味わうはめになりました。

「近頃、合掌のやり方がわからない子どもが出てきた」と指摘される三上章道さんは、著書の中で、

「合掌は『自己を見つめる・他者を思う・感謝』の表現であり、/逆に合掌ができない生活や社会は、『自己中心、他を思えない、感謝の気持ちに欠ける』/ということ」       (『合掌ができない子どもたち』(白馬社)
だと言われています。

願い事をかなえるためには、手も合わせるし、頭も下げる。たたりが怖いから、それを鎮めるためにお仏壇を用意する。それはすべて『自己中心、他を思えない、感謝の気持ちに欠ける』態度からきていると言っては言い過ぎでしょうか。仏様に手を合わせる中で育まれる心の豊かさが、見失われているとも言えるのかもしれません。

 浄土真宗の盛んな地域では、若い人が家を新築するときには、亡くなった人がいようがいまいが、お仏壇を置く風習が根付いていました。それは、阿弥陀様と共に人生を生き抜いて欲しいという願いが、形となって伝わっていたからです。質問者のご両親も、自分をふり返ることの大切さ、支えて下さる世界への感謝の大切さを知るからこそ、阿弥陀様の光に照らされながら、育てられながら人生を歩んで欲しいと、わざわざお仏壇を用意して下さろうとしておられるのです。

  お仏壇の前に座り、手を合わせることは、単なる先祖供養とは全く違います。今の私がどのように育てられ、どのように支えられてきたかという、いのちの歴史を味わい、感謝する気持ちが育まれる大切なご縁です。私が何を敬い、何を粗末にしているのかに気づかせて下さる場でもあります。その場を用意しようという願いを深く受け止めることが、自分の人生をより豊かにしていくことに、つながるのではないでしょうか。■