2013(平成25)年4月号 
 








お仏壇は、単なる先祖を祀る場所ではありません。お仏壇は、阿弥陀様の国お浄土を表します。お浄土を通して、仏様になられた亡き方と出遇っていくという形をとるのです。

 極楽寺のある長門市三隅地域では、都会と違って葬儀会館ではなく、家での葬儀がほとんどです。すると、遺体の前ではお焼香し、手を合わせるけれども、お仏壇は素通りされる方を時々見かけます。もちろん他宗教・他宗派の方もおられるからということもあるでしょうが、「葬式なんだから、まずは死んだ人を拝むべきだろう」という方も多いのではないでしょうか。しかし、浄土真宗では遺体よりもまず、お仏壇に手を合わせるという形をとります。それは、亡き人を粗末にするということではありません。亡き人を大切にするがゆえに、ご本尊である阿弥陀様、お仏壇に手を合わせるのです。


 最近は世の中全体が忙しくて、葬儀や法事の日程を決めるのも、なかなか難しい時代になりました。ある方の葬儀の前日、知りあいから電話があったのですが、その内容が「明日は友引だけれども、葬儀をしていいのか」というものでした。「友引」とは、中国の暦、六曜からきたものだとされていますが、元々の意味は「引き分け」という意味だそうです。ところが字面だけを見て、「友を引いていく」から、引いていかれたらたまらないということで、その日には葬儀をしないという風習になったとか。今では、すっかり定着してしまいました(韓国のホラー映画に、『友引忌』というものがあるそうです。元々の題名を直訳すると『悪夢』だそうなのですが、邦題としてわざわざ付けたようです。困るんですよね。安易に、こんな使われ方をすると)。
 でも、考えてみて下さい。あなたの友達は、あなたを巻き込んで死に至らしめるような方なのですか?それは、亡き人に対して失礼に当たるのではないでしょうか。


 とはいえ、周りの人から「友引」に葬儀をしてはいけないと言われたら、遺族にしたら不安な気持ちにもなりますし、大きなプレッシャーになるでしょう。でも今の時代は、日程的にやらざるを得ない場合もある。そんな時に、たまたま悲しみ事が重なったりすると、「ほら見ろ。友引に葬儀をするから・・・。」これは残酷な言葉ですよ。ただでさえ悲しみの中におられる遺族の方を、更に傷つけることになるのですから。
 こんな驚くようなこともありました。お別れの時に、ご遺体の顔を愛おしそうに撫でながら、涙をこぼしておられた方に、「お棺に涙をこぼしたら、死んだ人が後ろ髪引かれて、成仏できないから」と、二三人で引きはがそうとされるのです。こんな考え方は、感謝の涙を、尊い涙を、貶めてしまうことになのではないでしょうか。




※ 極楽寺では、友引葬儀について、きちんと説明をさせていただいています。しかし、関係のないことだからと無理強いはしていません。悲しみの中におられる遺族に、お寺からもプレッシャーを与えるわけにはいきませんから。但し、「これ以上、他の人を不安にさせたり、傷つけないように、関係ないと理解した上でして下さいね」とお願いをするようにしています。 


 人間ですから、誰もが不安な気持ちというものを抱えています。そして、誰もが死や悲しみ事に出会いたくはありません。しかし、不安な気持ちに流されてしまった時、私たちは亡き人を見失うのです。遺された方を傷つけてしまうのです。そして亡き人を、仏様から怨霊や亡霊へと引きずり降ろしてしまうのでしょう。仏様は祟られません。祟るような仏様はおられません。
 だからこそ、私たちは阿弥陀様を通して、お浄土を通して、仏様になられた亡き方と出遇っていくという形をとるのです。

 

よく、「亡くなった人が迷わないように、成仏させてあげて下さい」と仰る方があります。でも、私たちは阿弥陀様の本願力によって、お浄土に生まれさせていただき、必ず仏様に成らせていただくのです。その「仏」という言葉を仏教語大辞典で調べると、「真実に目覚めた人」とあります。つまり、迷っているのは亡き方ではなく、私たちの方だと教えられるのです。不安に流されることで、たくさんの人を傷つけていることにも気づかない私たちに、亡き方は仏様と成られて、「真実に目覚めてくれよ」という願いをお念仏に込めて、呼びかけて下さっているのでしょう。

 そういえば、お仏壇の中央におられる阿弥陀様は、立っておられますよね。仏様は、座っておられるのが普通です。(菩薩や天人の像には立っているものがありますが、基本仏様は座っておられます。)中国の善導大師という方は、この立ち姿を「軽挙」だと、軽はずみな行いだと言われています。では、なぜ阿弥陀様が軽はずみであり、仏様としてすべきではない立ち姿をしておられるのか。それは、私たちの迷いの深さを悲しみ、思わず立ち上がらずにはおれないからなのだそうです。

 お仏壇の前に座り、思わず立ち上がらずにはおれないほどの私たちの迷いの深さを見つめさせていただく。思わず立ち上がらずにはおれないほど、私たちを思って下さる阿弥陀様の願いの深さを味わう。そこに、亡き人と本当に出遇っていく。仏様と成られた亡き人と共に生きていく。そんな世界が開かれていくのではないでしょうか。■