2013(平成25) 8月号)  
 
 
 
 
 

浄土真宗において、お仏壇は単なる先祖を祀る場所ではありません。お仏壇というくらいですから、阿弥陀如来という仏様がおられなければ、そうとは呼べないのです。いえ、阿弥陀様がおられるからこそ、はじめてお仏壇と言えるのでしょう。私たちは、阿弥陀様を通して亡き人と出遇い、阿弥陀様を通して我が身を知らされるのです。では、阿弥陀様とは、どんな仏様なのでしょうか。

 

受け容れて下さる仏様


 阿弥陀様とは、私の願いを適えて下さる仏様ではありません。手を合わせても、宝くじは当りませんし、家内安全、無病息災、商売繁盛にもつながりません。では、どんな仏様なのか。失敗しても、成功しても、病気であっても、齢をとっても、この私をそのままに受け容れて下さる仏様だと言えるでしょう。しかし、受け容れられることが、そんなに有り難いことなのかと、首をかしげられる方があるかもしれません。
 これは昭和五十年代に書かれた、小学三年生の女の子の詩です。

「父ちゃん、母ちゃんとお金とどっちがええ?」

「そりゃ、かあちゃんさ」

「一億円でも?」
「うん」

「そんなら百億円でも?」
「うん。母ちゃんはお金にかえられない」 
「ほんと?」

母ちゃんとけんかしておい出そうとしても
心ではやっぱりそう思っているんだな
わたしはうれしくなって
「やっぱり!」といって父ちゃんの肩をたたいてやった。

『東井義雄一日一言』致知出版社刊

  「あなたは、お金にはかえられない。あなたは、かけがえのない存在だ。」と思ってくれる人があるということは、すごく幸せなことです。近頃は、「お金があれば何でもできる」などと言う人がいますが、それは「他にもっとお金を出してくれる人があれば、あなたでなくてもいい」という、《かけがえのなさ》を売り渡していくことでもあることに、気づいておられるのでしょうか。

「お金にはかえられない、かけがえのない存在」だと受け容れられる人生と、「お金がないのなら、お金がかかるのなら、あなたはもう用がない。」と、お金が《生きる資格》となっている人生とは、まったく違ったものになってくるはずです。

 そして、阿弥陀如来のご本願とは、「あなたは、かけがえのない存在です。あなたが敬われ、尊ばれる仏にならなかったら、私は仏に成りません。あなたが、地獄に堕ちるなら、私も共に地獄に堕ちよう。」という願いです。私たちのことをかけがえのない存在だと受け容れて下さる阿弥陀様がおられることを、親鸞聖人は教えて下さったのです。

 
 
 
 
 
 

弱音が吐ける場所


 葬送を考える行政書士・勝桂子さんによると、近頃は企業のCEO(最高経営責任者)、大学病院の医師、弁護士という人たちが、臨済宗のお寺に座禅に来るそうです。彼らに共通するのは、「弱音を吐くことができない」人たちだということ。座禅をし、自分を見つめ直して落ちついて、住職さんに弱音を聞いてもらうことで、精神的な均衡を保つのだそうです。やはり、安心して弱音を吐ける場があるということは、人間が生きる上において、本当に大切だということです。

 また、ある方は
「お仏壇の前に座りますと、ホッとします。親元に帰ったような気持ちになり、私のために待っていて下さったのかと思えます。」
           (「お仏壇と私」島田和子さん 本願寺新報への投稿より)
と言われます。
 阿弥陀様のおられるお仏壇とはすべてを受け容れて下さる場所ですから、ホッとできて、弱音が吐けて、愚痴や独り言が言える、ぬくもりのある場だということなのでしょう。私たちの先輩方は、そんな場所としてお仏壇と出遇い、自らを振り返る心の依り所とされたのです。

 本願寺の大谷光真ご門主が、
「お仏壇のある家庭で育った子どもは、何か深刻な事態に遭ったときに立ち上がるというか回復する力が育っているという話を耳にいたします。」
                       
(『朝には紅顔ありて』角川文庫)

と指摘されるのも、やはりお仏壇のはたらきがあるからこそ、そして阿弥陀様のはたらきに育てられた家族に囲まれているからこそだと言えるでしょう。

 

仏様に認められるからこそ


 社会学者の小熊英二氏は、
「宗教があまり大きな意味をもっていない現代の日本では、アイデンティティの確認が、他者から認めてもらうという形態で行われている。「誰も認めてくれなくても、神様が私を見て下さる」という回路が成立していないわけですから、「他人様」や「世間様」が「神様」にちかくなる。そうなると「他人に認めてもらえない」ことは「神に見捨てられる」ことに等しい。」
                     (『対話の回路 小熊英二対談集』)

と指摘しておられます。
 人間関係とは、本当に難しいものです。そして人間ですから、行き違い、すれ違い、仲違いは当然あるのです。にも関わらず、《人間関係の断絶》が、イコール《生きる資格の喪失》になっているのであれば、これは生きにくいでしょう。


 阿弥陀如来はすべてのいのちあるものを、尊び、受け容れ、必ず仏にさせると誓われた仏様です。そして、その願いに気づかされた時、自分がいかに《いのちのかけがえのなさ》を見失っていたのかという深い内省(悪人の自覚)が生まれてくるのだとも、教えられるのです。
 こんな時代だからこそ、阿弥陀様のはたらき、お仏壇のはたらきに気づくことが、ますます求められているのではないでしょうか。■