2016(平成28)年12月号  



 「毎日香」で有名な、老舗線香メイカーの「日本香堂」が、尾木ママ≠アと教育評論家の尾木直樹さんの指導・監修で、仏壇参りと子どもたちの「優しさ」の関係性を調査したそうです。12歳から18歳の男女約1,200人に、お仏壇にお参りを【毎回】【時々】【しない】の3つのグループに分け、他者への優しさに対する比較を行ったところ、明確な差が見られたということ。
 例えば、「誰かが悩みを話すとき『そんなこと知らない』とは思わない」「誰かが困っているとき、その人のためにそばにいたい」という子は【毎回】の方が【しない】よりも、10%以上多かったというのです。

 仏壇業者らでつくる全日本宗教用具協同組合の広報担当・保志康徳さんは、「仏壇に手を合わせるということが、感謝の気持ちを増幅したり、見えないものに対して畏敬の念を持ったりといった点で、いい方向に影響しているのではないか」と言われています。(『終活読本ソナエ』2016年冬号)

 確かに「目に見えるものしか信じない」という人には、それぞれの人が持っている背景や事情、歴史という「目には見えないもの」に想像力を働かせることは、なかなか難しいのではないでしょうか。ならば、人の心という目には見えないものに、深く共感したり、汲み取ろうとすることも、できなくなってしまうのもわからないではありません。そういう意味においても、心を育むはたらきが宗教にはあるということが、よくわかります。



 そういえば2012年には、『絵本 地獄』という本が、絵本売上ランキングで1位になったということが話題となりました。きっかけは、『ママはテンパリスト』(集英社刊)というマンガ。作者の東村アキコさんが6歳の息子の子育てライフを描いたこのマンガに、地獄の絵本を読み聞かせる場面が登場したことでした。「効果はてきめん。その日から息子がよい子に豹変しました。悪いことをしたら地獄に落とされると口で言うより、ビジュアルでイメージを植え付けたほうが効果的なんでしょう。それからは『えんま様はどこからでも見ている』と感じたのか、親の前だけではなく私がいないところでも『悪いことはできない』と思ってるみたいです。」ということで、大反響。TVの情報番組や、新聞でも大いに取り上げられました。


          


 児童文学研究者の清水真砂子さんは、アメリカ・ワシントンのスミソニアン博物館を訪ね、黒人の歴史の部屋を丹念に見て歩かれたそうです。そこには、黒人の人たちの差別の歴史について、とても良心的に展示・解説がされていました。事実を証拠だてる資料もたくさん並べられているのですが、でも、何かもうひとつわからない。当時の黒人たちの息づかいとか、悲しみとか、喜びとか、心の中で起こっていることが全然伝わってこない。その時清水さんは、『ミス・ジェーン・ピットマン』という本を思い出していたそうです。そこにはある黒人女性の一生が書かれているだけ。しかも、作り物・フィクションの小説です。でも、黒人の歴史・暮らしぶりがわかってくる。どんなふうに感じ、どんなことに、どんなふうに怒り、喜んだかが、手に取るように伝わってくる。
「私は館内を歩きながら、これだけの事実を並べてもなお一冊の物語に届かないということがあるのだ、とくり返し心の中でつぶやいていました。」(『幸せに驚く力』清水真砂子)



 「仏様なんて、しょせん物語じゃないか」「科学的ではない」と馬鹿にする人がいます。いや、そういう人たちの方が多いのかもしれません。しかし、真実とは「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」(『唯信鈔文意』)と親鸞聖人は言われます。言葉で説明なんてできないし、私たちの心では、とてもおよぶことはできないのだと。その真実と出遇うために、仏様の物語が語られているのです。いえ、物語を通してしか、私たちは真実と出遇うことはできないのです。福嶋寛隆という先生は「阿弥陀の物語は、必要にして不可欠なるフィクション」といわれています。

 「物語」には、大きな力があるのです。だからこそ、人の心を育み、救い、豊かにもします。でも、その力の大きさをある政治的な方向に利用した時、神仏の名の下に人を殺し、自分を殺す人間を生み出すことにも繋がりかねません。それは現在の世界情勢もしかり。また、これまでの日本の歴史でもそう。人間の歴史がそれを証明しています。
 だからこそ、「お仏壇に手を合わせ、仏様にお参りする」という物語の力を大切にし、同時にそれがおかしな方向に行かないように、いや私たちがそれを都合よく利用しないように、注意を払わなくてはならないのでしょう。「仏様の物語」に、真摯に、謙虚に向き合うこと。どこまでも私を振り返る「鏡」として接し、安易に利用しないこと。それが、私たちを育んで下さるのです。
 しかし、お仏壇や地獄の話が、単なる「子どものしつけに良い」からという形で利用されるのもいかがなものかと思います。まず親が手を合わせ、地獄に行くような生き方をしてはいないかと、自らを振り返えることが大切ではないでしょうか。「物語」や「人」を利用し、周りを利用するためだけの生き方は、結局「親」さえも利用するものとしか扱わない、そんな子どもを育てるのではないかと考えさせられるのです。■










 









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