2016(平成28)年6月号  



【頭だけでは…】


「人間は死ぬ」ということは、誰もが頭ではわかっています。しかし、大切な人を亡くした時に「人間は死ぬからね」とクール且つドライに言い放つ人を、私は見たことがありません。
 「ばあさんも、これだけ長生きしたら良いだろう。ワッハッハ。」と笑う人に限って、お別れの時にボロボロ涙をこぼされます。悲しみのあり方は、人それぞれ。何よりも頭でわかるということと、身体を通して知ることは、まったく違うのです。
 葬儀って大変です。でも、「人間が死ぬということは、こんなに大変なことなのだ」と身体を通して味わうことがなかったら、「人間が一人生きていた」という事実が軽くなってしまいます。

 事実、葬儀の簡略化と共に、遺族の悲しみへの尊重が、乱雑に扱われ始めました。「おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったくらいでは、会社は休めませんよ」と言われた人もいますし、父親の葬儀に、当日しか帰ることができなかった20代の息子もいます。儀式・儀礼が、事務的に扱われることで、大切なことが見失われていきました。頭だけで理解した気になることが、いかに傲慢なことかがわかります。
 簡略化については、それぞれの事情がありますから仕方がない場合もありますが、「せめて、これくらいは」と「さっさと、終わらせて」では、亡き人の人生に感じる重さはまったく違うでしょう。身体を使い、形を通さなければ、出遇えない世界があるのです。



【形を整えることで】

昨年、ラグビーワールドカップの活躍で、五郎丸歩選手が一躍時の人となりました。彼がキックの際に行うルーティーンは、「五郎丸ポーズ」としてこれまた大ブームとなりました。

 ルーティーンとは、規則的に繰り返される手続きのことで、
 @集中力を高める A気持ちが落ち着く B記憶力が高まるなど、
科学的にも効果があると証明されているようです。メジャーリーグのイチロー選手や、大相撲・琴奨菊関の琴バウワーも有名です。私たちの世代は「形よりも心だ」という考え方が一般的でしたが、彼らの姿を見ていると、「形を整えることで、心が整えられることがある」のだと思い知らされました。
 
 考えてみれば「いただきます」「ごちそうさま」など、日常に根づいていた形が失われることで、心まで見失われたようにも思えます。やっておけば良いということではありませんが、形があるから育てられ、伝わり、迷った時には立ち戻ることができるのです。私たちは、形、儀式の力を軽く扱ってはいなかったでしょうか。形は、とても大きな力を持っています。それを甘く見てしまうと、逆に、形や儀式で騙されかねません。ご注意下さい。



【呼び声に育てられる】

 私はルーティーンを通して、お念仏の凄さを思いました。浄土真宗では、お念仏は私が称えたものであっても「阿弥陀様からの呼び声」と受けとめるよう教えられます。つまり私たちの先輩方はお念仏を称える度に、阿弥陀様の呼び声を聞き、その心と出遇っていかれたのです。回数ではなく、称えておけば良いということでもなく、まさにルーティーンのように称えることで、阿弥陀様の心と出遇い直し、育てられ、導かれ、人生を歩まれたのです。
 またお念仏は、いつでも、どこでも、称えることができるというのが素晴らしいではないですか。誰もが、いつでも阿弥陀様の心に出遇い、阿弥陀様と共に生きていける。それは、すべてのいのちに開かれているということなのです。
私たちの先輩方は、「お念仏を称えて欲しい」「阿弥陀様の心に出遇って欲しい」と、お仏壇を用意しその環境を整えて下さっているのです。私たちの先輩方が伝えられた形を通して、形に込められた心を味わいたいものです。■