2016(平成28) 8月号)  
 
 
 
 
 


お仏壇は阿弥陀様の国、お浄土をあらわしています。お浄土は、西方浄土ともいわれますが、西に行けば浄土があるということではありません。西方とは陽が沈む場所、つまり帰る場所の象徴です。お浄土とは私たちが帰っていく場所。先に往かれた方と、また倶に会える場所。心の故郷なのです。

 

しかし近頃は、人間関係が難しい時代ですから、「死んでまでも、あの人には会いたくない」と言われる方もあるかもしれません。

『お葬式川柳』(葬式川柳倶楽部編)という本には、
「来世で また逢おうなんて ごめんだわ」
「あの世でも 一緒と怖い ことを言い」
「天国も 女房がいれば 地獄です」
といった、
切ない川柳がありますが、どうぞご安心下さい。煩悩にまみれた人間のままで出遇うのではありません。今度は、仏さまとして出会い直せる世界です。人間ですから、行き違い、すれ違い、仲違いは当然あることでしょう。しかし、仏さまとして出会い直せる場所がある。

 

「ただいま」「お帰り」と、帰っていける場所がある。これは人間が生きていく上で、とても大切なことです。こんな話は今どきなかなか受け容れられないかもしれませんが、「死んだらそれでおしまい」と考えて生きている人と、「死んだら浄土に帰っていく」と考えて生きている人とでは、ものの見方、考え方、そして生き方までもが大きく違ってくるのではないでしょうか。

 

 ある禅僧が若い頃のお話です。故郷からいよいよ修行に出ようとする時、駅のホームまでお母さんが見送りに来てくれました。いよいよ列車が動き始めようとした時、「立派なお坊さんになって帰ってきますから、お母さんも身体に気をつけて元気で待っていて下さい」と言うと、お母さんから「立派なお坊さんになった時には、私のところに帰ってこなくてもいい。それよりも修行が出来なくなった時や、病気でにっちもさっちもいかなくなった時にはいつでも帰っておいで」と言われたというのです。禅僧は、「この母親の一言がどんなにつらいことに直面した時でも、どんなに悲しいことがあった時でも、いつも私を支え続けてくれた。」と。

いつでも帰れる場所があるから、すぐに逃げ出すことができるというような話ではありません。この禅僧は、つらい時、逃げ出したい時、「お母さん」とつぶやいたでしょう。そして、お母さんの顔を思い浮かべながら、頑張られたのでしょう。一人じゃない。「いつでも帰っておいで。」そう言ってくれる人がいるからこそ、逆に踏ん張ることができる。それは、支えて下さる大地があるからこそ、しっかりと立ち、歩むことができるということなのではないでしょうか。

いろんな悲しみ、苦しみのあるこの人生の中で、待っていてくれる人がある。だから、「精一杯生きたよ」「こんなに感動したことがあったよ」「たくさん失敗したけれど、僕はこれだけ頑張ったよ」と、待っていてくれる人たちに素敵な想い出をたくさん話せるような、そんな人生を歩んでいこうと思う。これって、「死んだらおわり。だから、自分の好きなことをやる。人のことなんて、どうでもいい。自分が良ければそれでいい。」そんな生き方よりも、ずっと魅力的な生き方だと思います。

 

ところで、つらい時につぶやく「お母さん」という言葉。これはその禅僧がつぶやいた言葉でもあり、同時にお母さんの心がつぶやかせた言葉でもあるのでしょう。

実は「南無阿弥陀仏」というお念仏も、同じなのです。私が称えるお念仏は、ただ私が称えるということだけではありません。そもそも「南無阿弥陀仏」と称えるなんて、誰かに教えられなくては、称える誰かの姿に出遇わなければ、しないでしょう。そしてその称えた人も、また誰かの姿を見て称え、その人もまた・・・と、さかのぼれば親鸞聖人、法然上人、お釈迦様、そして阿弥陀様にまでたどり着くのです。つまり、念仏の歴史が私のところにまで至り届き、初めて私が「南無阿弥陀仏」と称えているということです。これは、私を思い、願われる阿弥陀如来の心が、そしてその心をいただかれた人々の歴史が、私に称えさせているということです。そう考えると、すごいことだと思いませんか?

 

 阿弥陀如来という仏さまが、私たちの迷いの姿を慈しみ悲しまれ、お浄土という世界を建立して下さった。私たちには、また会える世界が、帰っていく世界が用意されている。その世界を人生のより所とし、生きる方向を指し示して下さる人生の軸として、生き抜かれた先輩方の歴史があるのです。その歩みが、お仏壇として私たちの前に用意されているのです。

 

《浄土は死の帰するところでありつつ、

         それが生の依るところとなる》 金子大栄 ■

 

※『毎日、お参りしましょうキャンペーン』は、今回が最終回となります。