2017(平成29)6月号)  
 




 

千原ジュニアという芸人さんをご存知ですか?しゃべりが上手い、トークの達人です。身の周りに起こった事件を面白おかしく話す、その話術の巧みさもすごいのですが、「よくもまあ、あれだけ身の周りに面白い事件が起こるな」と感心するのです。その千原ジュニアさんがある時、こんなことを言っておられました。

「人を常に笑わせないといけないって、大変じゃないですか?」とか聞かれても、/別に大変だとは思わないですね。/面白いことを見過ごしてるか見過ごしてないかということも大きいと思います。例えば、植物学者の人は、道を歩いてて「あそこにあんな花が咲いてた」「あそこにあんな木が生えてた」と分かるけど、僕は同じ道を歩いててもなにも分からない。/それとおんなじで、ほんまに面白い芸人が、誰よりも一番笑ってますからね。/見つけようと思ったら、面白いことはそのへんにゴロゴロ転がってる。(『うたがいの神様』千原ジュニア)

 つまり、面白い芸人の周りにだけ、面白い事件が起こっているのではないのです。面白いことを見つけるアンテナがしっかり張られていて、キャッチしようとする意識が高い芸人が面白いのであって、見つけられないのは芸人としての意識が低いだけなのだと言われるのです。

 

 この話を聞いて、小説家の吉川英治さんを思い出しました。吉川さんは人から色紙を頼まれると、必ずといっていいほど「我以外、皆我が師なり」という言葉を書かれたそうです。これは、吉川さんの周りには、先生と仰ぐことのできるような立派な人ばかりだったということではありません。どんな人からも何かを学ぼうという、吉川さんの生きる姿勢の素晴らしさが表れている言葉なのです。


つまり、学びのアンテナがしっかり張られ、キャッチしようとする意識が高い人。誰からも学びとっていこうとする人。そういう人こそが、人生を豊かに生きる人であり、学ぼうとも、自分の姿を振り返ろうともしない人は、人生を心貧しく生きているのだと教えられるのです。


そういえば、ユーミンこと松任谷由実さんは、『やさしさに包まれたなら』(ジブリのアニメ『魔女の宅急便』の主題歌にもなりました)で、「カーテンを開いて、静かな木漏れ日のやさしさに包まれたなら きっと、目に映るすべてのことはメッセージ」と歌いました。木漏れ日を、単なる自然現象と見るか、やさしさに包まれていると感じるかでは、目に映る景色の深さは全く違うことでしょう。「目に映るすべてのこと」を私へのメッセージと感じることができる人生って、きっと豊穣で、輝いたものであるはずです。

 

そして親鸞聖人は、「この世は、教えや呼びかけに満ち満ちている」と教えて下さった方でした。世界中の仏様が「南無阿弥陀仏」と称え、その響きで、満ち満ちて下さっている。その「南無阿弥陀仏」こそ、この私への教えであり、呼びかけなのだと。しかし、一言で「南無阿弥陀仏」と言っても、そのメッセージの中身は無限です。一度聞いただけでわかるものではありません。「南無」にはこういうおいわれがあり、「阿弥陀仏」にはこういうおいわれがあったのか。阿弥陀さまとは、どんな仏様で、どんな生き方をされるのか。それを知らされる中で、「ああ、これが真実の生き方、考え方というものか。私の考え方はねじれていたな。」ということに気づかされていく。導かれ、育てられ、時には励まされ、抱きしめられる。これが、教えを聞く、呼び声を聞くということなのです。



私たちの先輩方は、声に出してお念仏を称え、そのお念仏に込められた教えや心を聞きながら、阿弥陀様に導かれ、共に人生を歩まれました。その念仏の歴史が、今ここに届けられているのです。

 

ところで、「馬の耳に念仏」ということわざがあります。「馬に念仏を聞かせても、その有難さがわからないことから、人の意見や忠告に耳を貸そうとせず、少しも効果がないこと。」という意味で使われます。つまり、学びのアンテナが張られていない人、学ぼうともせずに、聞く耳を持たない人を表すことわざです。これは、聴覚に難のある人を蔑む言葉ではありません。私の態度の問題です。聴覚に難があっても、学びのアンテナが張られている人は、いくらでもおられます。

しかしよくよく考えてみると、近頃、この譬えを使える人は限られているのではないでしょうか。なぜなら、念仏の有り難さをどれだけの人が知っているのですか?知らないままに使うならば、まさに自分が、「馬の耳に念仏」状態だということですよ。


 この私に呼びかけられている教えを聞く身となる。声に出してお念仏を称えては、私の生き方を見つめ直す。その営みが、歩むべき方向へと導き、人生を豊かに耕していくことに繋がるのだと、教えられるのです。■



※ 「聞く耳を持たない」という表現は、聴覚に難のある人を蔑む言葉ではありません。私の向き合い方の問題です。聴覚に難があっても、学びのアンテナが張られている人は、いくらでもおられます。