2018(平成30)3月号)  
 


今回の春の彼岸会法要は、ドキュメンタリーの映画監督・森達也さんを講師に迎え、特別講演を行います。森さんとの出遇いから、もう十五年以上。福岡時代の友人と、森さんの作品『A』『A2』の上映会を企画したことが、きっかけでした。以来、お付き合いさせていただく中で、私はとても大切なことを教えられてきました。実はそれが、私が改めて仏教に出遇い直し、同時に仏教がリアルなものとなっていく、ご縁にもなったのです。


 お経に、「群盲象を評す」といわれる話があります。今の人権感覚からいえば、配慮に欠けるようにも感じられる譬え話ですが、とても大切なことが示されています。
 ある王様が大臣に、目の見えない人たちを集め、象を触らせるよう命じました。その後王様は、一人一人呼びよせて、「象とはどういう動物か」とたずねました。すると、象の鼻を触った人は「象とは杵のような動物だ」と言います。象の耳を触った人は「箕のようだ」と言います。頭を触った人は「石のようだ」と言い、足を触った人は「木臼のようだ」、背中を触った人は「ベッドのようだ」と言ったというお話です。

 これでは、象の説明にはなりません。しかし、象の説明でないかというと、そうでもありません。象の一部ではありますが、象という生き物そのものの説明ではないのです。つまりこの譬えは、道理に暗い者は、物事の一部しか理解することができないにもかかわらず、それで全てを理解したと思っていることを指摘されのです。


 これは、目が見えない人をバカにした、失礼な話のように受け止められがちです。しかし、目が見えない人が「手にふれた部分だけで、全てを理解した気になる」と、どうなるでしょう。そこにある段差で転んでしまうかもしれない。向かってくる自動車に気づかないかもしれない。安易に決めつけることは、大きな事故につながりかねないのです。目が見えないからこそ、違う感じ方、知り方で世界と向き合っておられるのです。

 たとえば、足の裏の感触で畳の目の向きを知覚し、そこから部屋の壁がどちらに面しているのかを知る。あるいは、音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断し、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測する。人によって手がかりにする情報は違いますが、見えない人は、そうしたことを当たり前のように行っています。
     (『目の見えない人は、世界をどう見ているのか』伊藤亜紗)



 翻って、肉眼が見える私たちはどうなのか。見えるだけに視覚に頼り、捉われ、物事の一部しか理解していないのにもかかわらず、全てを理解したと思ってはいないでしょうか。

 それは、私たちの生活に大きな影響力を持つ、テレビなどのメディアについても同じことです。よく、「カメラが捉えた真実!」という番組の宣伝文句がありますが、それは事実ではあっても、真実ではありません。なぜなら、映し出された映像は、カメラで切り取った一部でしかないのですから。


 僕の周りには世界がある。あなたの周りにもある。三六〇度すべてにある。でもカメラはまず、この無限の世界を、四角いフレームの枠の中に限定する。その瞬間、区切られたフレームの外の世界は、存在しないことになってしまう。
 何かを撮るという行為は、何かを隠す行為と同じことなのだ。
             (『世界を信じるためのメソッド』森 達也)



 私たちは、映し出された一部を見て、全てを理解したと思い込んではいないでしょうか。見えていない部分があることを、自覚しているのでしょうか。
 「群盲象を評す」という話は、「ものごとの道理に暗い者」を「盲人」として表現する、とても繊細な譬え話なのです。

 ファインダーに片目を当ててカメラを回しながら、僕は自分が世界を選び直していることに気がついた。取捨選択している。/選ぶのは僕だ。そして誰を取るかで、見る人の印象は全然違う。  
            (『世界を信じるためのメソッド』森 達也)



映し出された映像は、撮る人、編集する人の意図で、大きく変わります。それは「ここに苦しんでいる人がいることを、知らせたい」というメッセージかもしれない。「これは、視聴率がとれるぞ」という計算かもしれないのです。
 ならば、一部しか見ることができない私たちは、どうすればいいのか。それは、見えていないことを自覚し、謙虚な態度で想像し、感じ、考えていく。世界を広げ、深めていくしかないのでしょう。

 生来、妙に正義感の強い私は、〇か×か、正義か悪かで決めつける傾向がありました。視野も、人間の幅も狭かったように思います。「私は正しい」という思い込みで、他人を決めつけ、自分をも決めつけていました。振り返れば、とても失礼で、恥ずかしいことだったと思います。

しかしそのフレームを、森達也という人との出遇いで揺さぶられ、それまでとはまったく違う、豊かな世界が見えてきたのです。
 とは言っても、広がってこの程度ですからね。教えられなければ、どうなっていたことか…。

 そして、改めて考えると、

 ブッダは、神でも預言者でもありません。私たちは通常自分という枠組みを通して物事を見ていますが、その枠組みをはずしてすべてをありのまま知見することができる人のことです。

 仏教は「一体自分はどんな枠組みで生きているのか」を点検し、その枠組みをできる限り強くしないようにトレーニングをするというタイプの「宗教」です。
             (『いきなりはじめる仏教生活』釈 徹宗)

と、釈徹宗先生が指摘されるように、そもそも仏教とは、私の持っているフレーム・枠組みを揺さぶる教えであったと、改めて気づかされたのです。森さんとの出遇いは、私にとって仏教と改めて出遇い直し、仏教をリアルに感じるきっかけとなりました。冒頭の「群盲象を評す」の話も、森さんとお付き合いさせていただく中で、腑に落ちたことの一つでした。

 ドキュメンタリーという分野の現場から、森さんが気づかれたことは、私たちにとても大切なことを教えてくださることと思います。そこから、仏教に改めて出遇い直すご縁にもなるように願っています。
 とても大切な時間になるはずです。お誘いあわせ、ぜひお参り下さい。■

 
 
 
 
 







森 達也(もりたつや)

1956年広島県呉市生まれ。ディレクターとして、テレビ・ドキュメンタリー作品を多く制作。98年オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画「A」を公開、ベルリン映画祭に正式招待され、海外でも高い評価を受ける。2001年映画「A2」を公開し、山形国際ドキュメンタリー映画祭で、特別賞・市民賞を受賞する。11年「A3」で講談社ノンフィクション賞を受賞。

現在は映像・活字双方から独自の世界を構築している。16年、作曲家・佐村河内守に密着したドキュメンタリー映画「FAKE」で話題を博す。明治大学情報コミュニケーション学部特任教授。