2018(平成30)4月号)  
 



「南無阿弥陀仏」は、古いインドの言葉、サンスクリット語の読みを、漢字に当てはめたものです。昔はアメリカを「亜米利加」、フランスを「仏蘭西」と、読みを漢字に当てはめて標記していました。(今でもアメリカを米国、フランス仏国と表すのは、ここから来ています。)それと同じです。

「南無」とは、サンスクリット語のナマス(namas)という言葉からきたものですが、もとの意味は膝を折るということです。膝を折り、跪いて、敬いの心をあらわすというのが「南無」という態度です。自分中心、お金中心の消費者体質である現代社会において、縁遠く、見失われている態度ではないでしょうか。

 

愛知県の知多半島に暁学園という特別養護施設があります。その園長をしておられた祖父江文宏さんという方がおられました。2002年に亡くなられましたが、虐待を受けた子どもたち、様々な事情で親と一緒に暮らすことができない子どもたちと、共に生きられた方です。真宗大谷派(東本願寺)のお寺のご出身で、親鸞聖人の生き様を常に意識しておられました。

祖父江さんは、子どもたちとよく山へ出かけられていたそうです。山には掟があります。一つは、火を焚く時には必ずまわりに「お願いします。火を焚かせていただきます」と言おうということ。これは、人に言うのではないのです。山に、自然に対して言うのです。二つめは、「お湯や油を熱いまま絶対に土に流さない」ということです。自然に申し訳ないと。そこに生きているいのちに申し訳ないと。驚くことに、これらは子どもたちが言い始めたことなのだとか。何と素敵な感性なのでしょうか!

祖父江さんは、こう言われています。

「人間が生きていくということは汚いことでしょ。生き物というのはそういうもんですよね。食べたら排泄するんですもん。だけどそれに蓋をしてしまったところに、見なければならない大切なものを見えなくしているような気がしてしかたがありません。不必要だったら、熱い油だって平気で土に捨てられる人間、汚いからと下水に流してしまう人間。そんな文明人より、僕はうちの子どもたちのように、熱いものを土にこぼさないんだ、それから火を焚く時も、「ごめんなさい。火を焚かせてもらいます」と、きちっと四方に言う。頭下げて言うんですよ。そんな子どもたちの生き方の方が、僕ははるかにすてきだと思います。だいいち、そんな子どもたちの顔の方が生き生きとして、とってもすてきですもん。この頃の日本人の顔は、卑しい顔をしてるでしょ。」(『子どもたちが観せてくれたこと』祖父江文宏)

 

近頃は、グランピングなるものが流行っているようです。キャンプに興味はあるけれど、「火おこしやテント設営が大変」「トイレが気になる」「虫が嫌」と敬遠する人のために、煩わしさを取り除き、快適さを追求した新しいスタイルのキャンプです。高級リゾートグループも展開しているようで、シェフが屋外でダッチオーブンディナーを提供したり、冷暖房完備のテントが用意されたりと、ホテル並みの設備やサービスが楽しめるのだとか。

しかしそれは、自分の快適な空間を、自然の中に持ちこんでいる状態です。そして、自然を道具のように扱う態度であり、暁学園の子どもたちの態度とは全く違います。

私には気づかない世界があり、その世界に迷惑をかけながらしか生きられない自分がある。だからこそ、頭を下げて「ごめんなさい。お願いします」と言おう。申し訳ないから「お湯や油は、熱いまま土に流すのはやめよう」「これくらいはさせてもらおう」と、慎もう。そして、そのことを忘れないでいようとする子どもたちの素晴らしい態度に、私は自分の生き方がとても恥ずかしく感じられました。子どもたちのような頭の下げ方を、まさしく「南無」というのでしょう。膝を折り、跪いて、敬いの心をあらわす態度です。

私の尊敬する宮城顗先生は、「南無」とは茶室に入るようなものだと言われています。茶室に入るときには、手を洗い、口をすすぎ、にじり口(狭くて低い入口)から膝を折って入っていく。これは、今までの自分の気分や思いを一度断ち切り、新たな気持ちで入るということだそうです。自分の思いを持ち込まない。そして入った部屋には、そこの亭主が何とか客をもてなそうと、軸から花から使う道具から、あらゆるものに心が配られています。つまりお茶室とは、私をもてなそうという心で満たされた世界であり、私に向けられた心に出会っていく場なのです。

そしてお互いの気持ちは、一期一会。あなたと出会っているこの一時は、もう二度とめぐっては来ない。だからこそ、大切にしましょうという態度です。一期一会の心で、まなざしを向け合い、耳を傾け、出会いが開かれていく場が、お茶室の世界です。

それに対して、今の世の中は喫茶店だと宮城先生は言われます。喫茶店と言っても、常連客が語り合うような昔ながらのものではなく、今どきのチェーン店のような無機質な喫茶店のことです。それぞれが自分の思いを持ち込み、自分の世界に閉じこもっていく場であり、そこには出会いはありません。

つまり「南無」とは、「オレがこうしたい」という自分の思いを持ち込むのではなく、私に向けられている心に出会おうとする態度のことなのです。そして南無阿弥陀仏とは、この世界が、私を思う阿弥陀如来の願いに満ちている世界であることに気づき、その私に向けられている阿弥陀仏の心に出会おうとする謙虚な生き方だと教えられるのです。

そんな「南無」の心を見失った姿を「邪見憍慢悪衆生」(『正信偈』)というのだと、宮城先生は言われます。「邪見」とは、自分だけという思いであり、どこにでも自分の思いを持ち込んでいこうとする態度です。そして、周りのものを利用するだけで、頭を下げるということがない姿が「憍慢心」であり、「悪衆生」とは嫌悪すべき生き方をあらわします。

それは、四方へ頭を下げることを忘れた生き方であり、祖父江さんの言葉で言えば、「卑しい顔になっている」姿です。つまり、謙虚な態度を見失い、自分だけ、自分に関わる世界だけに生きていく傲慢な姿は、嫌悪されるべき生き方だと教えられるのです。私たちは、そんな悪衆生の生き方になってはいないでしょうか。卑しい顔になってはいないでしょうか。よくよく、生き方を見つめなくてはなりません。

また親鸞聖人は膝を折り、跪いて、敬いの心をあらわす「南無」という言葉に、よびかけという意味も味わっておられます。あなたは何に「南無」して生きているのかと、呼びかけられ、問い返すうながしを「南無阿弥陀仏」というお念仏のはたらきに見い出されたのでした。

 

親鸞聖人はお念仏を称えながら、阿弥陀仏のよびかけを聞き、阿弥陀仏の世界に「南無」していく人生を歩まれました。そこから、周りのいのちを尊び、自分の人生を尊んでいく生き方が開かれたのです。

私たちは「南無」の態度を忘れてはいないでしょうか。何に「南無」しているのでしょうか。口に出してお念仏称えながら、自分の生き方を見つめ直さねばならないと、教えられるのです。■