ところで、先日こんなお話を読みました。
旅人が、建築現場で作業している人に「何をしているのか」と質問しました。一人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えました。二人目の作業員は「壁を造っている」と答え、そして三人目の作業員は「大聖堂を造っている。神を讃えるためにね」と答えたというお話です。
(『ものの見方が変わる 座右の寓話』戸田智弘)
三人は、同じ作業をしています。しかし、一人目の作業員は、ただレンガを積むという目の前の行為しか見えていませんでした。二人目の作業員は、壁を造るという、レンガを積む目的までは理解していたようです。そして、三人目の作業員は、壁を造るということは、大聖堂を造ることであり、それは神を讃えるためだと答えました。彼の目には大聖堂だけではなく、神様の存在やこれまでの先人の歴史、そして同様に神を讃える未来の人々の姿も見えていたのでしょう。そこには「私は神様のお仕事の手伝いをしている」という誇りもあったはずです。
同じ作業をしていても、同じ景色を見ていても、それぞれのものの見方によって、意味は大きく変わります。目先の、稼ぐための行為としか受け止められない人もいれば、プロとして仕事と向き合う人もいます。しかし自らの存在を、長い歴史と大きな世界の中に見い出している人は、深く豊かな生き方を、自らの仕事に感じることができるのでしょう。
つまり、法座にお参りし、ただ座り、話を聞き、時には居眠りをしたりもする。そんな営みこそが、実は仏様のお仕事のお手伝いなのです。お参りに来られる方がなかったら、仏法を受け継ぎ、伝える場が成り立たないのですから。同時にその営みは、亡き方や、歳をとられお参りできなくなられた方々の営みや人生を讃え、また次の世代の人々を尊ぶことでもあるのです。
そう受け止めると、人生の意味合いも大きく変わってくるのではないでしょうか。人生を、ただ自分のためだけのものと見るのか。それとも「ささやかではあっても、仏様のお仕事のお手伝いをさせていただいている」と、長い歴史と大きな世界の中に自らの人生を見い出すのか。どちらを選ぶかで、見える景色も意味合いも、まったく違うものになってきます。
これからも夜の座を、できる限り続けていきたいと思います。仏様のお仕事のお手伝いをされる方、募集中です。どうぞ、お参りください。よろしくお願いいたします。■
|