2018(平成30)年6月号




前回の『極楽寺だより』で、「夜の法座にお参りください」とお願いしたところ、春の永代経法要・夜の座へ何人もの方が参拝してくださいました。本当に有難うございます。中には、「住職さんが言われていたから、来ました!」という方もあったそうで、ウルウルしてしまいました。「私たちは、夜しかお参りできないから…」と言われる方もありましたので、改めて夜の座を続けていくことの大切さを噛みしめているところです。

もう一つ、嬉しいことがありました。年配の常連の皆さんが、とても喜ばれたことです。常日頃から、「私たちがお参りできなくなったら、どうなるだろうか」と心配してくださっていましたから。このことをご講師の先生にお話しすると、「素晴らしいですね。私のお寺と思っておられるんですね」と驚かれていました。長い歴史を通して仏法が伝わってきたのは、このように自分のこととして受け止め、支えられた方々があってのことだということを、ヒシヒシと感じています。

 
 

 どんなことでも、やめたり壊すのは簡単です。しかし、受け継ぎ、支え、伝えていくことはとても難しいことです。そして一旦壊れてしまったら、元に戻すのはより一層困難になります。

東日本大震災の後、釈徹宗先生がアメリカのCNNテレビから「なぜ、あのような状態なのに、被災地では奪い合いも略奪も起こらないのか?」と取材を受けられました。アメリカでは、2005年に起きたハリケーン・カトリーナ災害後の治安悪化は、かなり酷かったようです。

釈先生は、「大部分の人がこうした危機的状況でも、秩序だった態度でいることが、結局は早く良くなることを知っているからではないか」と説明されました。なぜなら、世界各国と比較すると、ここ五十~六十年間の日本社会は、フェアネス(公正性)が保たれていたからなのだと。

 世界を見渡せば、社会が公正だとは思えない国のほうが圧倒的に多いのです。たとえば、インドはかなり不公平な社会です。順番を守って並んでいれば、必ず自分の番がやってくるとは誰も思っていません。となれば、当然「順番を守っていればみんなが出られるのに、小さな出口に人が殺到するから結局誰も出られない」といった事態も、しばしば起こります。(『覚悟の決め方』釈徹宗 他)

 フェアネス(公正性)が保たれる社会は、みんながそれを大切に守り、支えなくては成り立ちません。それが実現していることは、とんでもなく凄いことなのです。誰かが軽い気持ちで裏切れば、疑心暗鬼が生まれ、簡単に崩れてしまう脆いものなのですから。これが一旦壊れると、元に戻すのは容易なことではありません。

 仏法を伝える場が、長い歴史を通して続けられていることも同様です。私が支えなくてはならないという自覚を持った方々の、営みがあってこそです。しかしそれも、崩れるのは一瞬です。事実、多くの寺院で、夜の座が勤められなくなっています。簡単に崩れ去るほど脆いものだからこそ、大切にしなくてはならない。そして同時に、支えて下さる方々へ敬意を払わねばならない。そんな思いを新たにしているところです。





 



 

 ところで、先日こんなお話を読みました。

 旅人が、建築現場で作業している人に「何をしているのか」と質問しました。一人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えました。二人目の作業員は「壁を造っている」と答え、そして三人目の作業員は「大聖堂を造っている。神を讃えるためにね」と答えたというお話です。
          (『ものの見方が変わる 座右の寓話』戸田智弘)

 三人は、同じ作業をしています。しかし、一人目の作業員は、ただレンガを積むという目の前の行為しか見えていませんでした。二人目の作業員は、壁を造るという、レンガを積む目的までは理解していたようです。そして、三人目の作業員は、壁を造るということは、大聖堂を造ることであり、それは神を讃えるためだと答えました。彼の目には大聖堂だけではなく、神様の存在やこれまでの先人の歴史、そして同様に神を讃える未来の人々の姿も見えていたのでしょう。そこには「私は神様のお仕事の手伝いをしている」という誇りもあったはずです。

 

 同じ作業をしていても、同じ景色を見ていても、それぞれのものの見方によって、意味は大きく変わります。目先の、稼ぐための行為としか受け止められない人もいれば、プロとして仕事と向き合う人もいます。しかし自らの存在を、長い歴史と大きな世界の中に見い出している人は、深く豊かな生き方を、自らの仕事に感じることができるのでしょう。

 つまり、法座にお参りし、ただ座り、話を聞き、時には居眠りをしたりもする。そんな営みこそが、実は仏様のお仕事のお手伝いなのです。お参りに来られる方がなかったら、仏法を受け継ぎ、伝える場が成り立たないのですから。同時にその営みは、亡き方や、歳をとられお参りできなくなられた方々の営みや人生を讃え、また次の世代の人々を尊ぶことでもあるのです。

そう受け止めると、人生の意味合いも大きく変わってくるのではないでしょうか。人生を、ただ自分のためだけのものと見るのか。それとも「ささやかではあっても、仏様のお仕事のお手伝いをさせていただいている」と、長い歴史と大きな世界の中に自らの人生を見い出すのか。どちらを選ぶかで、見える景色も意味合いも、まったく違うものになってきます。

 

 これからも夜の座を、できる限り続けていきたいと思います。仏様のお仕事のお手伝いをされる方、募集中です。どうぞ、お参りください。よろしくお願いいたします。■