2019(令和元)12月号)  
 




今年も気がつけば、あっという間に終わろうとしています。いろんなことがありました。災害も多く、今なお大変な思いをしておられる方もあります。個人的にも、いろんなことがありました。しかし、節目があることで、振り返ることも、見直すこともできるのでしょう。恒例の『今年一年を振り返って』のコーナーは、一年間の出来事を散りばめながら、新たな年を迎える心構えを確認したいと思います。

 
 

ある人生相談に寄せられたお話です。

その人の実家は自営業を営んでおられ、仕事場にはBGMのように一日中テレビがついていて、ニュースや情報番組、バラエティーが流れています。

家族みんな仲が良く、両親も優しい性格で、人の悪口を言って喜ぶような人ではなかったのですが、ここ数年、両親がよその国の人を馬鹿にしたり、差別的な意見を言うことがとても多くなったというのです。「あの国はこんなに汚くても平気で生活している。信じられない」「某国人は平気で嘘をついて、意地汚くて、指摘されると逆に怒る」等、いわゆるヘイト(憎悪)感情に満ちた差別発言をするようになりました。それが、どうもテレビに影響されているようなのです。

その人自身は、日頃テレビを見ないのですが、試しに一緒に見続けていると、某国の細かいニュースが一日に何度も流れ、コメンテーターが「こわいですね〜」という映像ばかり。見ていてとても嫌な気分になり、やんわりと「その国の人が全員同じ思想なわけではなくて、報道で切り取られた一部のことなんだよ」と伝えても、「いや、絶対そんな事はない」と聞く耳を持ってくれません。両親も過激な活動家になるつもりもないようなので、聞き流せばいいだけかもしれませんが、テレビの情報を鵜呑みにして他の国の悪口を言う両親と話すのが、とても嫌だというのです。(『鴻上尚史のほがらか人生相談』)




 
 


 考えてみればここ数年、ある一定の国々に対して攻撃的な発言をする番組が増えました。それも影響しているのでしょうか。今年の日韓関係は、戦後最悪となりました。この問題については私も色んな思いがあって、ここではとても書ききれないのですが、一つはっきりしたのは「戦争の傷跡は、七十年以上経っても大きな影響を残すものだ」ということ。そして年月や条約だけで、後片付けできるものではないのだという事実です。戦争というのは本当に恐ろしいものなのですね。長年にわたり対立を、そして憎しみや悲しみを生み続けるのですから。

ところが五月には、そんな恐ろしい戦争を、安易に煽る発言をした若い国会議員がいました。結局、勇ましく威勢のいい言葉を使う人は、後片付けのことなど考えてはいないのです。後片付けは、コツコツと地道にするもの。そうして友好関係を築いてこられた人たちの取組みを、声の大きな人が壊すのは、どこの国も一緒のような気がします。

また、仮想敵国を作り攻撃的な発言をすることで、国民の不満のはけ口を作り、支持率を上げようとする政治家は、今やどこの国でも見られるようになりました(世界一の大国の大統領ですら・・・)。ヘイト(憎悪)をまき散らし対立を煽ることが生み出すのは、憎しみの連鎖だけ。それは、はるか昔から仏教が指摘してきたことです。そして、その連鎖はやがて渦となり、すべてを飲み込んでいくことは、歴史が証明しています。

しかし、そんな声がテレビで垂れ流されているのも、事実なのです。平成から令和に元号が変っても、ラグビーワールドカップで盛り上がりノーサイドの精神が讃えられても、一方では殺伐とした言葉が飛び交っていることは変わりません。


 


 誰かを悪者にすることで、問題を単純化し、自分を正当化する。いつしか、「こんな腐った世界は、滅べばいい」という思いとなり、破壊行為へとつながっていく。実はこれ、ここ数年来のアニメやドラマにおける、悪役のパターンの一つなのです。アニメやドラマでは、大抵その悪役は、主人公に負けてしまうか改心します。ところが、主人公を引き立たせるためにも、悪役は魅力的に描かれますから、悪役の言葉に自分の置かれている環境を重ね合わせ、共感する人々も多いようです。

そう考えると、七月に起きた京都アニメーション(通称:京アニ)放火は、とても悲しい事件でした。数々のヒット作品を生み出した京アニの第一スタジオに、一人の男が侵入しガソリンを撒き、社員三十六人が死亡した事件です。詳細は未だはっきりしませんが、まさにヘイト感情に満ちた破壊行為でした。

 私は、アニメがヘイト感情を育てたと言うつもりはないのです。そうではなくて、私たちの生き方は、誰の言葉を聞くのかということで大きく左右される。それによって、見える世界や生き方がまるで違うものになることを、注視したいのです。穏やかな両親が、テレビから流れる過激な言葉を聞くことで、憎しみの渦に飲み込まれていくように。ならば、私は一体誰の声を聞いているのか。よくよく考えなくてはならないのでしょう。

 

浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」のお念仏は、私が称える念仏も、周りの人が称えた念仏も、「阿弥陀様からの呼び声であると受け止めなさい」と教えられます。

その呼び声は、間違っていても、愚かであっても、決して私を見捨てることのない大きな慈悲に包まれていることに、目覚めさせてくださるはたらきです。だからこそ、安心して私の愚かさを、小ささを、受け止めることができる。そして、そこからまた、何度でも歩み直すことができるのだと教えられるのです。
 そして、

「自分や世界を、小さな考え方で決めつけてはいないか」
「世界はもっと豊かだし、奥深いのだ」
「お前は、どこに向かって生きているのか」

と響き、導き、育ててくださるのです。
 私は、誰の声を聞いて生きているのか。いつしか、聞くべき声を見失ってはいないか。新たな年を迎えるにあたり、今一度確認したいと思うのです。■