世界のほとんどの宗教には、いつも口に出して唱える言葉や文言があります。
ユダヤ教では、朝と夕べの祈りの際に「シュマー」という神に仕えることを誓う言葉を、必ず唱えます。これは最も重要な言葉とされる聖句です。イスラム教にも、神を崇める「シャハーダ」という文言があり、一日五回のお祈りの際に必ず唱えます。
このような行為を釈徹宗先生は、「定形の信仰告白」と呼ばれています。定まった言葉を日常的に称え、拠り所を確認し、帰依を表明する。それは同時に、共に同じ言葉を称える人々を、時代も地域も超えて結びつけ、そのつながりを支えるものでもあります。これは、多くの宗教において、とても重要視されている宗教的な行為です。
そして釈先生は、南無阿弥陀仏と称えるお念仏も「定形の信仰告白」だと言われています。(『いきなりはじめるダンマパダ』釈徹宗)
お念仏を称え、阿弥陀様からの呼び声を聞き、自分がどんな生き方をしているのかを振り返る。何を大切にし、何を粗末にしながら生きているのか。どこに向かって生きているのか。このような日常的な確認作業は、実は人間にとってとても大切な行為なのです。
『敦煌』(1998年 原作:井上靖 出演:西田敏行 佐藤浩市)という映画に、こんな場面がありました。愛し合う男女が城を抜け出し砂漠に逃げ出します。一晩中一生懸命に走り、「ここまで来れば、かなり城から離れただろう。もう大丈夫だ」と思った頃に、夜があけて辺りが明るくなりました。ところがふと前を見ると、抜け出したはずの城があったのです。呆然とする二人。一体なぜ、そんなことになったのでしょうか。
実は、人間が砂漠や雪原などの何も目印のない所を、自分の感覚だけを頼りに真っすぐ歩いていくと、二百メートル歩くごとに、必ず利き腕の方に五メートルずつずれるのだそうです。自分の感覚を拠り所にしていると、真っすぐ進んでいるつもりが、少しずつずれていき、最終的にはぐるりと回って元に帰ってきてしまう。これを「循環彷徨」というのだそうです。
夜の砂漠を懸命に走り続けた二人が、抜け出したはずの城に戻ってきたのは、人間が本来持っている性質であり、自分の感覚を頼ることが原因だったのです。
宮城顗という先生は、
「それは、決して、砂漠や雪野原でのことだけではありません。それこそ人それぞれに、一生懸命生きてきたこの人生という旅路にあっても、同じことなのでしょう。たとえば一生懸命生きてきたのだけれども、気がついて、振り返ってみた時、いったい自分は何をしてきたのだろうかという思いにとらえられるのも、やはり「循環彷徨」なのでありましょう。これを仏教では「流転」という言葉で教えてきました」(『後生の一大事』宮城顗)
と言われています。
|