2019(平成31)年3月号






世界のほとんどの宗教には、いつも口に出して唱える言葉や文言があります。
 ユダヤ教では、朝と夕べの祈りの際に「シュマー」という神に仕えることを誓う言葉を、必ず唱えます。これは最も重要な言葉とされる聖句です。イスラム教にも、神を崇める「シャハーダ」という文言があり、一日五回のお祈りの際に必ず唱えます。


このような行為を釈徹宗先生は、「定形の信仰告白」と呼ばれています。定まった言葉を日常的に称え、拠り所を確認し、帰依を表明する。それは同時に、共に同じ言葉を称える人々を、時代も地域も超えて結びつけ、そのつながりを支えるものでもあります。これは、多くの宗教において、とても重要視されている宗教的な行為です。

 そして釈先生は、南無阿弥陀仏と称えるお念仏も「定形の信仰告白」だと言われています。(『いきなりはじめるダンマパダ』釈徹宗)
 お念仏を称え、阿弥陀様からの呼び声を聞き、自分がどんな生き方をしているのかを振り返る。何を大切にし、何を粗末にしながら生きているのか。どこに向かって生きているのか。このような日常的な確認作業は、実は人間にとってとても大切な行為なのです。

 

 『敦煌』(1998年 原作:井上靖 出演:西田敏行 佐藤浩市)という映画に、こんな場面がありました。愛し合う男女が城を抜け出し砂漠に逃げ出します。一晩中一生懸命に走り、「ここまで来れば、かなり城から離れただろう。もう大丈夫だ」と思った頃に、夜があけて辺りが明るくなりました。ところがふと前を見ると、抜け出したはずの城があったのです。呆然とする二人。一体なぜ、そんなことになったのでしょうか。

 実は、人間が砂漠や雪原などの何も目印のない所を、自分の感覚だけを頼りに真っすぐ歩いていくと、二百メートル歩くごとに、必ず利き腕の方に五メートルずつずれるのだそうです。自分の感覚を拠り所にしていると、真っすぐ進んでいるつもりが、少しずつずれていき、最終的にはぐるりと回って元に帰ってきてしまう。これを「循環彷徨」というのだそうです。
 夜の砂漠を懸命に走り続けた二人が、抜け出したはずの城に戻ってきたのは、人間が本来持っている性質であり、自分の感覚を頼ることが原因だったのです。

 宮城顗という先生は、
 「それは、決して、砂漠や雪野原でのことだけではありません。それこそ人それぞれに、一生懸命生きてきたこの人生という旅路にあっても、同じことなのでしょう。たとえば一生懸命生きてきたのだけれども、気がついて、振り返ってみた時、いったい自分は何をしてきたのだろうかという思いにとらえられるのも、やはり「循環彷徨」なのでありましょう。これを仏教では「流転」という言葉で教えてきました」(『後生の一大事』宮城顗)
と言われています。


 
 



また曇鸞大師という方は、このような人間のあり方を、尺取り虫が輪っかの上を這っているようなものだと譬えられています。尺取り虫を見下ろしている私たちには、同じところをぐるぐると回っていることが一目瞭然です。何と愚かで、虚しいことを繰り返しているのかと思います。しかし仏様の智慧の眼で見れば、そんな姿こそ私たちの生き方そのものなのだと、曇鸞大師は教えられるのです。人それぞれに、一生懸命生きたとしても、それが自分の感覚を頼りにする限り虚しいものになる。それを仏教では「流転」、つまり迷いの境界というのです。

だからこそ、道しるべとなるもの、方向を示す羅針盤が必要なのでしょう。私たちの先輩方は、南無阿弥陀仏のお念仏を、「われに、まかせよ(南無=まかせよ 阿弥陀仏=われに)」という呼び声だと受け止められました。お念仏とは、まさに人生の羅針盤のように、この私を導き、呼び続けてくださる阿弥陀様からの呼び声です。そして、その呼び声を頼りに歩まれた方々の後姿は、私たちの人生の道しるべなのです。

「定形の信仰告白」であるお念仏を称えることは、自分の生き方を確認する作業です。南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀様からの呼び声に導かれる人生を歩む。どこに向かって生きているのかを見つめ直す。

それは、私に先立って歩まれた方々と共に同じ道を歩み、同じくお浄土へと生まれていくのだという確認作業でもあります。そこに、時代と地域を超えたつながりを実感することもできるのだと教えられるのです。

 

 ところで「循環彷徨」には、もう一つ興味深いポイントがあります。それは「利き腕の方にずれる」ということです。これを宮城先生は、「人間は、得意なものによって迷うのだ」と教えてくださいました。得意なものだからこそ、そこに落とし穴がある。得意なだけに傲慢さが同居し、大丈夫だという思いが振り返りや確認を疎かにするのでしょう。人間というものを、深く見つめたお諭しです。大切に受け止めなくてはなりません。■