2019(平成31)年 4月号)  
 




 今回は、『南無阿弥陀仏』の言葉の意味について、ご説明します。わかりにくい表現があるかもしれませんが、どうかしばらくの間お付き合いください。

『南無阿弥陀仏』とは、古いインドの言葉・サンスクリット語の発音を、漢字に当てはめたもの(音写)す。アメリカを「亜米利加」、フランスを「仏蘭西」と漢字で表すようなものだと思ってください(ちなみに米国・仏国という表記は、この音写から来ています)。ですから、漢字そのものには深い意味はありませんが、意味で考えると『南無』と『阿弥陀仏』とに分けられます。


 

 『南無』とは「ナマス(namas)」という言葉の音写で、元々は「折り曲げる」という意味です。腰を折り曲げ、相手にひざまずいている様子から、「敬い礼をする」「帰依する」「よりどころとする」と表すようになりました。ちなみにインドでは「ナマステー」と挨拶しますが、「テー(te)」とは「あなたに」ということですから、「あなたに敬礼します」「私はあなたを尊びます」という意味になります。なんて素敵な挨拶なのでしょう!

 

 『阿弥陀仏』の『阿(a)』とは、否定や反対を表します。例えば、ラッキーに対してアンラッキー、ストップに対してノンストップと言うように、頭に「アン」や「ノン」がつくと否定や反対の意味になる。それと同じです。

『弥陀(mita)』とは「計量された」という意味です。計測器・量りを「メーター」と言いますが、この語源が実は、この『弥陀(mita)』なのだという説もあります。

 ということで、『阿弥陀仏』とは「無量(量り知れない)の仏様」と訳されます。では、何が量れないのでしょうか。実は経典がインドから中国に伝わる途中、『阿弥陀』に続く二つの言葉が省略されました。それは「光(ābha)」そして「いのち(āyus)」です。「量ることができない光といのちのはたらきを持つ仏様」、それが『阿弥陀仏』という仏様なのです。ですから、阿弥陀様のことを「無量光仏」「無量寿仏」とも言い表します。

 ちなみに、無量の光とは、すべての空間を照らすはたらき(どこでも)を表します。すべての者を教え導き、救うはたらきです。

無量のいのちとは、すべての時間を超えるはたらき(いつでも)を表します。苦しみ悩む人がいるかぎり、その人々と共に生き、必ず救うはたらきです。

いつでも、どこでも、私たちを救うためにはたらき続けてくださる仏様が『阿弥陀仏』だということです。

 

 ややこしい説明で申し訳ありませんが、もう少しお付き合いください。これらの意味を踏まえた上で、親鸞聖人は、『南無阿弥陀仏』に二つの意味を味わっておられます。

 一つは意味の通り、「私は、量り知れない光といのちの仏さま(阿弥陀仏)を尊びます(南無)」というこちら側の受け止めです。そしてもう一つは、「量り知れない光といのちの仏である私 (阿弥陀仏) に帰依しなさい(南無)」という阿弥陀様からの呼び声という意味です。

つまり、『南無阿弥陀仏』とお念仏を称えるということは、阿弥陀様の呼び声を聞き、阿弥陀様のはたらきを受け止めていくことであり、阿弥陀様のはたらきをよりどころにして人生を歩むということなのです。(以上で説明は終了です。ここまでお疲れ様でした)

 


さて、私がPTA会長をしていた時に参加した、研修会でのことです。講師の先生は、20年間の小学校の教師生活を経て、現在は教育サポーターをしておられる方でした。

小学校では、毎年のように起こるトラブルがあります。例えば、ウンコのおもらしは必ず起こります。授業の途中に「先生、何かクサイ」という声があがる。みんなの顔色を見ると、誰がしたのかはすぐにわかります。そんな時に、どうすればその子を傷つけずに対応できるかが、先生の腕の見せ所。しかし、そんな対応は大学では教えてもらえません。あくまでも、その場で臨機応変にしなくてはなりませんが、「僕の場合は「君、ちょっと顔色が悪いな。保健室に行こうね」と、さり気なく連れ出したよ」といった経験談を聞いているだけでもかなり違います。そこで若い先生が集まり、それぞれの経験を通しながら、みんなで考え、引き出しを作っていく。そんな学びの場を主催しておられるのです。その方から、とても興味深い話を聞きました。




体育館で、「みんな集まれ!」と言うと、パッと集まる子もいれば、グズグズ動く子もいます。では、いつも一番遅い子を、一番早く集まれるようにするにはどうしたらいいのでしょうか。

答えは、とてもシンプルなものでした。そんな時は、自分が一番遅い子の所に行って、「みんな集まれ!」と言ってやったらいい。すると、その子が一番になる。そして頭をなでてやると、その子も「ああ、先生。僕のこと気にしてくれとるんやなぁ」と思って、集まるのもだんだん早くなるのだそうです。

まさに、逆転の発想です。来ないのであれば、いや来れないのであれば、こちらから行けばいい。それは、来る子よりも、来ない子をエコヒイキするのではありません。一番遅い子を心配するという事は、みんなを心配するということでもあるのです。誰もが、いつも元気ではありません。ケガすることもあれば、落ち込むこともあります。そんな時に、一番遅い子を気にしてくれる先生であれば安心です。いつでも、どこでも、先生が見ていてくれるのですから。

私は、この話を聞きながら、阿弥陀様のはたらきを思いました。いつでも、どこでも、私のそばにいてくださる。寄り添い、心配し、共に歩んでくださる。優秀な者だけを選び取るのではない。愚かな者も、弱い者も、何より苦しみ悩む者を、等しく摂め取る仏様。それが阿弥陀様のはたらきなのです。竹中智秀という先生は、このはたらきを「選ばず」「嫌わず」「見捨てず」という言葉で教えてくださいました。

 

ところが、私たちの世の中を覆うのは「選び」「嫌い」「見捨てる」という考え方です。役に立つものと立たないものを選び、儲かるものと儲からないものを選び、好きか嫌いかを選ぶ。自分の思いに適うものを選び、適わないものは切り捨て、見捨てる。そして、自分自身が役に立たなくなったら、歳をとったら、病気になかったら、「こんな自分はダメだ」と自分を嫌い、見捨ててはいないでしょうか。

そんな私たちに、「あなたの尊さを見失うな」「みんなに裏切られ、独りぼっちになったとしても、決して見捨てない世界がある」と呼びかけられる声がある。それが『南無阿弥陀仏』のお念仏なのです。その呼び声に応え、阿弥陀様と共に人生を歩む。自分の思いや社会を覆う考えではなく、阿弥陀様の願いをよりどころに生きる。それが『南無阿弥陀仏』のお念仏を称えるということなのです。

 私たちの先輩方は、「誰も認めてくれなくても、阿弥陀様が一緒にいてくださる」「わかっていてくださる」「受け止めてくださる」と、お念仏を称えながら、阿弥陀様と共に人生を歩まれました。もちろんそれは、自分の頑迷さを正当化するために、阿弥陀様を利用することではありません。阿弥陀様に導かれ、育てられ、生と死を超えた真実を与えられる歩みです。

そんな歴史がお念仏の響きに込められて、今私のところにまで届けられているのです。大切に受け止めなくてはなりません。■