2020(令和2)年12月号 







 今年は、後々まで長く語り継がれるであろう年になりました。新型コロナウィルスの猛威は、未だ世界を覆っています。不安や恐怖を抱えながらも従事しておられる医療関係者の方々や、スーパー、コンビニの店員さんなど様々な方々のご苦労に、頭が下がります。また、コロナ禍により職を失われた方、大変な思いをされている方々もおられます。何とも、言葉になりません。

 新型コロナウィルスが、これほど短期間に世界中に広がったのは、やはり便利な世の中になったからでしょう。人やモノが、世界中を短時間で移動できる便利さが裏目に出て、ウィルスもあっという間に広がり100万人以上の死者が出るほどの大惨事となってしまいました。

 それは、インターネットやSNSの普及で、多くの情報を簡単に手に入れることができるようになったと同時に、デマや悪意や憎悪も簡単に拡散してしまう世の中になってしまったこととも重なります。私たちは、便利さを追い求めてきたばかりに、今になってその裏にあったリスクを突きつけられているのかもしれません。何事にも、良い面と悪い面があります。「ポジティブに!」「前向きに!」という言葉をよく聞きますが、私たちは都合の良い面だけしか見ていなかったのではないでしょうか。立ち止まり、振り返りながら、都合の悪い面にもきちんと向き合うことの大切さを、痛切に教えられました。


 しかし、経済を優先すれば感染のリスクが高まり、感染予防を優先すれば経済が持たない、あっちを立てればこっちが立たなくなるという難しい状況にまで、追い込まれてしまいました。こんな時は、起死回生の劇的な解決策を求めてしまいがちになりますが、もしそんなものがあったとしても、その裏にはどんなリスクがあるのでしょう。このような時だからこそ、現実を受け入れ、冷静に、丁寧に向き合うべきだと思います。


 


 仏教は、思い通りにならないのが人生の大前提だと、昔から語ってきました。そして、思い通りになったとしても、そこにはまた苦しみが生まれることも。
 『大無量寿経』には、「田が有れば、田によって憂いが生まれ、家が有れば家によって悩みが生まれる。田が無ければ田があったら…と憂い、家が無ければ家が欲しいと苦しむ」といった言葉が出てきます。あれが無い、これが無いという苦しみもありますが、あったらあったで、また苦しみが生まれてくる。それが人間の本質であると、二千年前のお経には既に書かれているのです。
 ところが、近頃は「夢をかなえよう」「自分の生きたいように生きよう」という言葉が氾濫しています。思い通りになることが幸せだと思っているのが、現代社会に生きる私たちです。しかしその裏には、思い通りにならない人生は無価値だとする考え方が潜んではいないでしょうか。事実、思い通りになれない自分を惨めに思う人たちを、数多く生み出しています。

 

 コロナ禍でテレビドラマの収録ができない中、苦肉の策として、過去の人気ドラマが再放送されました。そのひとつに、二〇一六年に大ヒットした新垣結衣さん主演の『逃げるは恥だが役に立つ』があります。星野源さんの歌う主題歌『恋』と、それに合わせて新垣さんが踊る恋ダンスが話題となり、社会現象にもなったドラマです。その中に、こんな場面がありました。

 石田ゆり子さんが演じるアラフィフ(五十歳前後)の女性・百合が、十七歳年下の男性から好意を抱かれます。その彼に好意を持つ若い女性・五十嵐が、百合に挑戦状を叩きつけるシーンです。

五十嵐「五十にもなって若い男に色目を使うって虚しくなりませんか」
百 合「あなたは随分と自分の若さに価値を見出しているのね」
五十嵐「お姉さんの半分の歳なので」
百 合「私が虚しいと感じることがあるとすれば、あなたと同じ様なことを感じている子が、この国には沢山いるということ。今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに、自分がなる。それって、つらいんじゃないの?私たちの周りには、たくさんの呪いがあるの。あなたが感じているのもそのひとつ。自分に呪いをかけないで。そんな怖ろしい呪いからは、さっさと逃げてしまいなさい」


 自分がバカにし、見下していたものに自分がなる。「若さが一番」という決めつけた思いが、自分を苦しめていく。その思いが強いほど、惨めさが増していく。このドラマでは、それを呪いと言っています。ならば現代社会は、呪いに覆われていると言って良いのかもしれません。



 そしてまた、容姿端麗で才能や名声、富があっても、人間にはそれぞれに悩みや苦しみ、悲しみがあるのです。それは、有名な俳優さんや女優さんの相次ぐ自死・自殺からも知らされます。傍から見れば羨むような夢を叶えたはずの方々も、人知れず苦しみを抱えておられた。つらかったと思います。本当に、痛ましいことです。
 にもかかわらず私たちの社会は、思い通りになることこそが幸せだという呪いに縛られている。思い通りになれない自分を責める人を生み出している。求めるべき方向を見失っていることにも気づくこともなく、呪われた道を進んでいる。そんな有り様を、仏教では「迷い」というのです。

 だからこそ、思い通りにならない人生をどう受け止め、どう生きるのかが問われるのでしょう。自分の思いが、かえって自分を苦しめているのではないかと点検する。思い通りにならないことから見えてくるものを大切にする。そこから、今までとは違った景色が開けてくるのだと教えられるのです。

 

 とは言っても、差別やいじめを受けてもそれを受け入れ、耐えなくてはならないということではありません。今年は、アメリカで起きた白人警察官の過剰な暴力による黒人男性の死をきっかけに、「ブラック・ライブズ・マター」という人種差別抗議運動が世界中に広がりました。差別やいじめは、人間の尊さを奪う行為です。同時に、自分の迷いを深め、自身の人生を虚しくする行為でもあります。まさに差別は、人類にかけられた究極の呪いなのかもしれません。ならば、何を受け入れ、何を変えていくべきなのか。そのこともまた、問うていかなくてはならないのでしょう。



 アメリカの神学者、倫理学者・ラインホールド・ニーバーの言葉に、このようなものがあります。

「神よ、変えることのできるものについて、
  それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 変えることのできないものについては、
  それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 そして、変えることのできるものと、
  変えることのできないものとを、
   識別する知恵を与えたまえ」

             (ラインホールド・ニーバー 大木英夫 訳)


 「ニーバーの祈り」として有名なこの言葉は、多くの人々に気づきと勇気を与えてきました。これは、阿弥陀様の智慧と慈悲のはたらきにも重なるのではないかと、私は思っています。

 阿弥陀様は、思い通りにならない人生の中で、時に絶望し、時には自分の思いで人生を決めつけてしまう私たちに、「自分の思いだけで、人生を決めつけるのではない」「あなたがあなたを見捨てても、決してあなたを見捨てることのない世界がある」と呼びかけられています。
 その呼び声である南無阿弥陀仏のお念仏を称えながら、「私のそばには、いつも阿弥陀様がいてくださる。共に悲しみ、涙を流してくださる。決して見捨てることなく、どんな私をも受け止めてくださる。だからこそ人生を投げ出さずに、丁寧に生きていこう」と、変えられないものを受け入れながら、苦難の人生を生き抜かれた人たちがおられたのです。
 そして、阿弥陀様と相談しながら問題に向き合い、変えられるものは何かを見抜こうと、苦悩しながらも歩み続けられた人たちもおられたのです。
 思い通りにならない人生であることを受け入れ、それでも丁寧に、大切に人生を生き抜かれた先輩たちに導かれ、私もまた同じ道を歩ませていただいているのです。

 

 本当に厳しい状況が続きます。私が想像するよりも、もっと苦しい状況にある方もおられることでしょう。そんな中でも一日一日を阿弥陀様に励まされながら、相談しながら、共に歩んでいきたいと、激動の一年を振り返りながら思っています。■