2020(令和2)年 3月号)  
 




『南無阿弥陀仏』の『南無』とは、元々インドのサンスクリット語の「ナマス(namas)」という言葉で、「尊敬する」「帰依する」「よりどころとする」という意味です。ですから、言葉の意味としては、「阿弥陀様をよりどころとします(南無します)」という意味になります。

同時に親鸞聖人は、『南無阿弥陀仏』にはもう一つの意味を味わっておられます。それは、「私を(阿弥陀仏を)よりどころとしなさい(南無しなさい)」という、阿弥陀様からの呼び声という意味なのです。



 念仏詩人と呼ばれる木村無相さんに、「オーイとハーイ」という詩があります。

ナムアミダブツは オーイと いうこと
   ナムアミダブツは ハーイと いうこと
   オーイと よんだら ハーイと こたえる
   オーイも ハーイも ナムアミダブツ――
   ひとつで コト足る
   ナムアミダブツ―― ナムアミダブツ ナムアミダブツ

 つまり『南無阿弥陀仏』とは、阿弥陀様からの「オーイ」という呼び声であり、それに応える私たちの「ハーイ」という受け止めなのです。浄土真宗では、阿弥陀様の呼び声を聞き、受け止め、それに応えてお念仏を称えることが、救いの扉を開くのだと教えられます。

 

阿弥陀仏(われに)南無(まかせよ)    → 阿弥陀様からの呼び声   → オーイ
阿弥陀仏(あなたに)南無(おまかせします) → 私たちの応え・人生の態度 → ハーイ



 住友生命の取締役をされた金平敬之助さんの『ひと言の違い』という本に、このような話があります。

A君という中学校三年生の男の子がいました。小学校時代から不登校を続けています。この四月、担任の先生が交替してO先生になりました。もちろんO先生はA君の顔を見たこともありません。
 でも、他の生徒と同様に接することにしました。毎日、「学級ノート」を自宅に届けるようにしたのです。学級ノートには連絡事項だけでなく、先生との交換日記のような、思いや返事を書く欄があります。届けるのは、クラス全員が協力してくれ、回収は近所に住む生徒に頼みました。もちろんA君は玄関にも出て来ません。お母さんを通しての受け渡しです。

生徒からの返事を書く欄は、強制はしていません。「よかったら書いてください」というものです。A君の欄はいつも空白でした。何しろ顔を見たこともない生徒ですから、何を書いたら良いのかわからないまま、O先生は毎日ひと言書き添えることを続けました。

ある時、たまたまサッカーのW杯開催中だったので「応援している国は?」と一行書いたところ、なんと返事が来たのです。

『フランス』

たったひと言でも、O先生は感激しました。すぐに行動を起こして、インターネットでフランスチームの情報を集め、それをノートにペタペタ貼りつけました。その後も相変わらず、A君の書く欄は空白だったので、「ムダか」という思いもありましたが、迷いながらも先生はノートを送り続けました。


やがて、夏休みに入る一学期最後の朝でした。回収されたA君のノートを開くと、とたんに先生は涙が溢れて止まらなかったそうです。何と返事が書いてあったのです。先生はノートを握りしめて心の中で叫びました。「人間でよかった。この仕事をしていてよかった」と。この時の返事も、やはりひと言でした。

『先生ありがとう』
 

 金平さんは、「『フランス』『先生ありがとう』の『二つのひと言』が、先生をどんなに喜ばせたか、A君は気がついただろうか」と書いておられます。
 「ムダか」と思いながらも、先生は毎日ノートを送り続けました。自分の思いは、呼びかけは、彼に届いているのだろうかと不安を抱えながら。そんな先生のもとに届いた、「フランス」というひと言が先生を喜ばせ、「先生、ありがとう」のひと言が「人間でよかった。この仕事をしていてよかった」とまで感動させたのです。

 実は、この話には続きがあるのです。夏休みが終わり、新学期が始まりました。すると、何とA君が登校していたのです。先生はビックリなどというものではありません。いちばん落ち着かなかったそうです。その後、A君は無事卒業し、志望高校にも入学できました。そのことを伝えられた金平さんは、「今度は、私が気がついた」と言われています。
A君は『フランス』『先生、ありがとう』の『二つのひと言』で、実は、自らの将来をも救ったのではないだろうか」と。
 呼びかけに応えることが呼びかけた方を喜ばせ、呼びかけに応えたことが自分自身を救っていく。このようなことが、現実に起こり得るのです。 

 自分の作った小さな枠組みに閉じこもり、世界を決め付けるのが私たちです。「こうありたい」という理想や目標は、自分を動かすエネルギーになる場合もありますが、同時に他の選択肢を奪い視野を狭めることにもなりかねません。順調な時ほど、その枠組みからはずれる人を「だから、アイツはダメなんだ」と蔑むこともあります。その蔑みは、上手くいかなくなった時に「こうではない私はダメだ」と自分を蔑み、苦しめることに繋がるのです。自分の思いが視野を狭め、自分の枠組みが周りを、そして自分自身を苦しめていく。思いや枠組みが強いほど、その苦しみは深くなるのだと仏教は教えます。

 そんな思いや枠組みの外からの呼び声を聞き、受け止め、応えていくことが、実は自分を救い、周りを喜ばせることになるのです。A君が、『フランス』『先生、ありがとう』の『二つのひと言』で先生の呼び声に応えたことで、先生を「人間でよかった。この仕事をしていてよかった」と喜ばせたように。そして同時に、自らの将来を救ったように。

『南無阿弥陀仏』のお念仏とは、思いや枠組みの外からの、阿弥陀様の呼び声なのです。「オーイ。何と、小さなところに閉じこもっているのか」と、世界の広さと豊かさを示してくださる呼びかけなのです。その呼び声に素直に「ハーイ」と応えることが、自分を救うことになるのだと教えられるのです。



 とは言っても、人間というものは難しく、頑なな存在ですから、なかなか素直にうなずくことはできません。親鸞聖人が、このお念仏の教えは「難信」であると言われていますが、それはまさに、私たちの側の頑なさを表わしておられるのでしょう。応えてしまえば、頷いてしまえば簡単なのに、中々素直に頷けない。いや、私にとっては素直になることが一番難しいことなのだと、日々痛感しています。

しかし親鸞聖人は、阿弥陀様という仏様は、逃げる者を追いかけてでも救い取ろうとされる仏様だと教えてくださいました。「ものうきことなく」飽きることもなく、倦むこともなく、常に常に呼び続けておられる仏様なのだと。

 お念仏の歴史とは、まさに阿弥陀様の呼び声に応えられた方々の歴史なのです。お念仏を称え、呼び声を聞きながら、自分の枠組みを点検する。そんな歩みが、長い歴史を通して、今私のところにまで届けられているのです。

なかなか素直に頷けない私ではありますが、先を歩まれた方々の後姿を通して、少しずつ育てられていることを実感している今日この頃です。■