2021(令和3)年12月号 




 

今年も、コロナ禍に振り回された一年でした。ワクチン接種も広まり、治療薬の開発も進み、ようやく出口が見えかけてきましたが、まだまだ油断はできません。

これまで人類は、ペストやスペイン風邪など、幾度も感染症に苦しめられてきました。しかしこれほどまで、グローバルに高速で人や物が移動する時代はありませんでした。それだけ、感染が広がるリスクも、桁外れに大きくなったということです。

まさに想定外であり、未曽有(「未だ曽て有らず」歴史上、一度も起こったことがない)の事態だったと言えます。何より、ここ数年は「ムダを無くせ」「合理性を高めよ」という号令の下に、医療体制が縮小されてきましたから、難しい対応を迫られたことでしょう。感染対策だけではなく、ワクチン接種や助成金給付などについても、現場は厳しい状況だったと思います。





また、東京オリンピック・パラリンピックは、当初心配されたほどの大きな混乱もなく終わりました。スタッフの方々のご苦労は、大変なものだったでしょうが、この結果が必然だとは思えません。ギリギリの中で、結果的に何とか終えることができたというのが、本当のところではないでしょうか。

このような状況ですから、たくさんの失敗や反省があったはずです。それを、責めているわけではありません。未曽有の事態なのですから、あって当然のこと。ただ、失敗にきちんと向き合い、整理して、次につなげることが必要なのだと思います。これから先も、どのような事態が起こるかわかりません。対応能力を上げるためにも、必要なことです。
 しかし政治家の方たちからは、成果を誇る言葉はあっても、反省は伝わってきません。それは、反省の言葉を言えば、叩かれるからか。それとも、反省するのは自虐的だと思っているからなのか。真摯に反省する人を叩くことも、失敗に向きあわないことも、創造的な振る舞いとは言えません。なぜなら、これからも同じ失敗を繰り返すだけになってしまいますから。このような生き方は、仏教でいうところの「迷いの境界」そのものです。

 

最先端の映像技術を使い、テクノポップユニットPerfumeのライブ演出サポートや、リオオリンピック閉会式のセレモニー演出を手掛けたメディアアーティストの真鍋大度さんは、「たまたまの成功はいらない。欲しいのは失敗の原因だ」と言われています。たまたま成功することがあったとしても、それで「うまくいった。よかった!」となるのが、一番良くない。なぜなら、たまたまだったら、何がたまたまかわからないから、次にはつながらない。しかし、失敗と向き合えば原因がわかる。それを一つ一つ消していけば、次につながる。だから、欲しいのは「失敗の原因」なのだと。(日本テレビ『13000万人のSHOWチャンネル』2021911日放送)

これは、まさに金言だと思います。次の世代のことを考え、よりよい社会を創っていこうと思うならば、たとえそれが自分にとって都合の悪いことだとしても、「失敗の原因」を探し、語り継ぐ必要があるはずです。






 また、モデルでタレントのアンミカさんは、お父さんから「失敗なんてないんだよ。そこに学びや発見があれば、失敗とは言わない。失敗があるとするならば、それは字の如く、敗けることを失って天狗になる時だ」と教えられ、育てられたのだそうです。NHKEテレ『SWITCHインタビュー』アンミカ×マンボウやしろ)

敗けの中から知らされることがあり、敗けを見失うことで気づけなくなることがある。とても大切なことです。ならば、失敗から目を背け、敗けを認めず反省しないことは、成長するチャンスを失うことでもあると言えるでしょう。

 




自慢ではありませんが、私は昔から数多くの失敗をしてきました。思い出すだけでも苦々しいことばかりですが、そのおかげで「こんな時には、どうすれば良いのか」という選択肢や引き出しを持つことができ、対応能力がかなり上がったと自負しています(それだけ、許されて生きてきたのだということも、身に染みています)。

ですから、十代、二十代の若い人たちと話す機会があると、「失敗のススメ」を力説しているのです。「失敗は若いうちに経験した方が良いよ。歳をとってからの失敗は、ダメージが大きいから。失敗した時にどう振る舞えば良いのかを、周りが温かく見守ってくれる若いうちに、学んでおくべきだよ」と。これも、失敗から目を背け続け、ある程度の年齢になってから挫折を味わったことで、結構深いダメージを受けてしまったという、私の苦い経験からなのですが…。

「たまたまの成功」に安心していても、それがいつまで続くかわかりません。想定外や未曽有の出来事は、起こり得るのです。だからこそ、転び方や受け身、起き上がり方を身体に染み込ませておかなければ、大怪我もするし、立ち上ることもできなくなってしまいます。

 

こう思えるようになったのは、やはり親鸞聖人の人間観に影響されているからだと思います。阿弥陀様の光に照らし出された時、どこまでも不完全であり、本当の智慧を得ることはできない私であることを知らされる。しかしそんな私は、同時に阿弥陀様から、慈しみ、大切に思われている存在なのだ。これが親鸞聖人の人間観です。
 また、親鸞聖人が和国の教主(日本のお釈迦様)と尊敬された聖徳太子は、『憲法十七条』に「われかならず聖なるにあらず。かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ」、私がいつも正しいわけでもなく、また相手がいつも愚かなわけでもない。共に、ただの人間であり、それが大前提なのだと言われるのです。

だから、卑屈になれとか、開き直れと言われているのではありません。それは、迷いを深める行為です。「共に凡夫」という前提に立てば、失敗することは当り前。そこから失敗にどう向き合い、どう受け止めていくのかが問われるのでしょう。何より失敗しても、過ちを犯しても、阿弥陀様は決して私を見捨てることはないと誓われているのですから、安心して反省し、失敗に向き合うことができるのだとも教えられるのです。

私たちの社会は、失敗しない人が優秀だと思っているのではないでしょうか。しかし人間である限り、失敗しない人などいないのです。「失敗したことがない」と言い切れる人がいるとしたら、それはアンミカさんのお父さんのように、失敗を経験に変え、豊かに活かしている人だと思います。「たまたまの成功」を握りしめ、失敗から目を背け、責任を転嫁しながら言うのであれば、そう思っていること自体が、実は人生を浅く、貧しいものにしていく「失敗の人生」なのかもしれません。

 

 オリンピック直前には、開会式の楽曲担当者が、二十年以上前の雑誌のインタビューで、障害を持つ同級生をいじめていたことを告白していたとして問題となり辞任。また、開会式のショーディレクターが、やはり二十年前の芸人時代に、ホロコースト(ナチス政権下のユダヤ人の迫害および殺戮)をコントのネタにしていたことにより解任されるということがありました。

 どちらも、大変な問題だと思います。しかし、違和感を覚えるのは、「では、それを現在どう考えているのか。あの失敗をどう受け止めているのか」が問われないままに、感情的なバッシング、爆発的な炎上に流されての謝罪や辞任が繰り返されることです。いじめも差別も、決して許されることではありません。傷つかれた方への謝罪、反省は不可欠です。それがないことを批判するのであれば納得できますが、失敗への向き合い方についての検証なしに、ただ叩き、切り捨てるのは、いじめの構図と同じです。

誰しも、若かりし頃の恥ずかしい行為や、幼稚な失言はあります。私も、思い返すだけで赤面するようなことばかりです(そればかりか、友人に「昔、こんなこと言ってたよなぁ」と指摘されることも。こちらは覚えていなくても、知らずに人を傷つけていることさえあるのですね。なんと罪深い…)。







それを、ただバッシングするためだけに掘り返し、人格や人生を決めつけられる。その矛先は、いつ誰に向けられるかわからない。そんな社会は誰にとっても不幸なものにしかなりません。ある芸能人の方はこの辞任・解任騒ぎの後、週刊誌の記者が、自分の過去の不適切な発言や行動の映像や記事をSNS上で募集していることを知って驚いたそうです。ゾッとする話です。こんな時代ですから、失敗に向き合うのはますます難しくなりますし、目を背けたり、隠したい気持ちになるのもわかります。

ならばいっそのこと、きちんと向き合い、謝罪し、反省し、学びとした方が、人生をより良いものにするのではないでしょうか。いつ指摘されるかと、ビクビクしながら隠し続けるのは、それもまた不幸な生き方なのですから。

 

 

私自身、今年一年を振り返ってみれば、「ああしておけば」「もっとできることがあったのでは」と、失敗や反省ばかりです。しかしそこに向き合うことでしか、より良い人生を歩むことにはならないのだと、考えさせられています。今年の失敗が、来年以降に活かされて、「あの失敗があるからこそ、今の自分がある」と言えるようにしたいものです。■