2021(令和3)3月号)  
 




 

今、『鬼滅の刃』というアニメが大ヒットしているのをご存知でしょうか。『週刊少年ジャンプ』で連載されていたこのマンガは、アニメ化されて大ヒット。昨年末には映画化され、コロナ禍にもかかわらず日本の歴代興行収入の新記録を更新しました。東京の映画館では、なんと一日で42回も上映したところがあるそうです。もちろん私は、原作のマンガは全部読みましたし、アニメも観ています。映画は、まだなのですが…。

では、この『鬼滅の刃』が、どうしてこれだけヒットしたのでしょうか。様々な人たちの声を手掛かりに、私なりに読み解いてみたいと思います。

舞台は、大正時代。人間を襲う鬼と、鬼に立ち向かう主人公たちを描いた物語です。もちろん主人公と仲間たちも魅力的なのですが、何より鬼たちの描かれ方が興味深いのです。

鬼は、かつては人間でした。鬼の親玉によって鬼となり、人を襲うようになったのです。そして主人公たちに倒され死んでいく時、鬼たちの脳裏には、人間だった頃の記憶が走馬灯のように蘇る。その切ない感情が描かれます。

退治されて当然と思っていた「悪」である鬼が、かつては弱い人間だった。彼らにも、彼らなりの事情があり、悲しみがあり、痛みがあった。貧困、差別、屈辱、コンプレックス、人生の理不尽さ。悲哀や苦悩の中で、鬼の親玉の誘惑に付け込まれ、鬼になったこと。そこには、それぞれに胸を打つストーリーがあり、見ている側の私も「彼らにも、そんな事情があったのか」と思わされる。そして主人公は、その悲しみにそっと寄り添います。

人を殺した鬼ですから、殺された側からすればたまったものではありませんが、でも、その意外な思いの強さに心打たれる。何か、不思議な感情を手渡されてしまう。そこに、この作品の凄さを見る人が多いのです。

 

また、精神科医の片田珠美先生は、『鬼滅の刃』大ヒットの要因に「自分の身近に鬼がいるかもしれない、あるいは、自分自身も鬼になるかもしれない」といった不安を、現代社会に生きる私たちは抱えているからだと指摘されています。
(『全集中!「鬼滅の刃」考〜誰が「鬼」になるかわからない時代、メガヒットは生まれた 精神科医・片田珠美さん』毎日新聞20201111日)

例えば、コロナ禍で「トイレットペーパーがなくなる」というデマが流れ、買い占めが起きた時、あるドラッグストアの店員さんがSNSに、「コロナより人間が怖い」と書き込みました。「トイレットペーパーはないのか!と、今まで優しかった人々が、殺気立って、とにかくイライラをぶつけてくる。人が鬼に見える」と。

今まで優しかった人が、不安や恐怖に煽られると、鬼のような行動をする。鬼のような行相で、クレーマーと化す。いつもは普通の人が、インターネットやSNSの世界では、冷酷に人を叩き、嘲り、踏みにじる鬼となる。まさに身近に鬼がいて、いつ現れるか、いつ叩かれるかわからない時代です。





そして同時に、自分も「いつ鬼になるかわからない」という不安も抱えているのだと片田先生は言われます。それを切実に感じられたのは、2008年の秋葉原で起こった無差別殺傷事件でした。

事件を起こした加藤智大死刑囚は、元は普通の派遣社員。中学までは優等生で、高校は地元でトップの進学校に合格したのですが、その後伸び悩み、短大卒業後は就職できず、派遣社員として転々。加えて、加藤死刑囚は「非モテ」(女性にモテない)であることをとても気にしていたようです。

その時、片田先生が注目したのは、非正規で非モテの若い男性たちの「自分も加藤死刑囚のようになっていたかもしれない」という声の多さです。人生に、確かさも温もりも感じられない。いつ職を失うかもしれないという不安にも怯えている。先生の病院に通ってくる若者にも同じ状況の人たちがたくさんいて、いつキレて自分が鬼になるかわからないという不安を抱えていました。

「あぁ、誰が鬼になっても不思議ではない社会が到来した」と片田先生は感じたそうです。確かにその後も、同様の無差別殺傷事件は、数多く起きています。

しかし『鬼滅の刃』では、人を何人も殺した鬼でさえ、そこには事情があり、苦悩があったことを汲み取ってくれる。主人公は、鬼の悲しみに寄り添ってくれる。自分も、もしかしたら鬼になるかもしれないとリアルに思う人の心に、その優しさが響いてくる。そこに、この作品の魅力があるのではないでしょうか。

では、どうすれば鬼にならずに済むのか。片田先生は「そのカギは、家族をはじめとする人とのつながりだ」と言われます。自分が死ぬ、あるいは罪を犯すと「あの人が悲しむだろう」と想像すること。この作品内でも、主人公や彼の妹が鬼になるのを止めたのは家族のつながりですし、実際に大切な人の顔が浮かぶことで、自殺や犯行を思いとどまる例はかなり多いようです。

とは言え、親戚付き合い(血縁)はほとんど無くなり、地域共同体(地縁)も崩壊しつつあり、それに代わる会社を基にしたつながり(社縁)も廃れています。そこには煩わしさもありましたが、同時に温もりも、大切にしてくれる人との出遇いもありました。それらを、目先の「楽しさ」だけを求め、「損か得か」でしか考えず、「便利さと合理性」を優先する価値観で、私たちが切り捨ててきたのです。その価値観は、すでに家庭内にも広がっています。温もりのあるつながりや、大切にされる経験を奪われて「あとは自己責任」と放りだされた彼らに、大切な人の顔が浮かべば良いのですが…。


 


ところで、2019年にヒットした『ジョーカー』という映画をご存知でしょうか。アメリカン・コミックのヒーロー「バットマン」の悪役・ジョーカーの誕生秘話を描いた映画です。

心優しい青年アーサーは、格差社会が生んだ貧困の中で、脳神経の病いを患い、職を失い、屈辱を与えられ続けます。そして遂には、自分を笑い者、晒し者にしたテレビ司会者を射殺します。その時彼は、こう叫ぶのです。「失うものがない男を怒らせたら、どうなるのかを思い知らせてやる!」。こうして、悪のカリスマ・ジョーカーは誕生しました。温もりやつながりを、職を奪われ、そして人格を否定され、失うものがないほどに追い詰められた結果が、鬼を生み出したのです。この映画は、残酷なシーンの多さにR指定(年齢制限)されながら、史上初の全世界収入10億ドルを超える大ヒットを記録しました。

『鬼滅の刃』や『ジョーカー』の大ヒットは、「自分の身近に鬼がいるかもしれない、あるいは、自分自身も鬼になるかもしれない」といった不安がリアルに迫ってくる。とても映画の中の話や他人事とは思えない。まさに、そんな時代背景を表しているように思えます。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひをもすべし」(『歎異抄』)。縁に触れれば、何をしでかすのかわからないのが私たちなのだという、親鸞聖人の言葉が胸に突き刺さってくるようです。

 


精神科医で作家の岡田尊司先生は、「人間関係内でのつながり」や「愛情」の欠落という問題は、かつては宗教が担っていたものだったと言われます。

「親のいない子、親に愛されない子にも、等しく神や仏の愛が注がれるという信仰は、欠落を補う強力な装置であった。この世の移ろいやすい愛よりも、もっと不変の偉大な存在の愛を信じ、感謝することによって、不足した愛への怒りや不満や悲しみを乗り越えることができた」(『死に至る病』岡田尊司)

その宗教も、心の拠り所としての機能を、既に失っています。それは、世の中の流れと同時に、私たち宗教者の責任でもあるのでしょう。

しかし、心の拠り所を信仰に求め、苦難を受け止めながら、人生を歩まれた人々の歴史は、確かに存在するのです。「周りの人に見捨てられても、阿弥陀様だけはいつも一緒にいてくださる」「阿弥陀様だけは、決して私を見捨てない」という安心感の中で生きられた人たちが。

阿弥陀様は、「苦悩の有情」(苦しみ悩む者)を救うために、仏と成られました。苦悩する私がいるからこそ、願い(本願)を立て仏と成られたのが阿弥陀様なのです。だから、どんな私をも見捨てない。否定もされない。拝まない者も、背く者も、逃げる者をも、摂め取って捨てない。この私が否定されてしまったら、存在意義はなくなってしまう。それが阿弥陀如来という仏様なのです。

そんな阿弥陀様との出遇いを通して、温もりや、自分の大切さを実感し、人生の安心感をいただかれた方々の歴史が、確かにあるのです。


 


『鬼滅の刃』では、こんなシーンがありました。

ある鬼が死を前にして、昔を思い浮かべます。身体が弱く寝たきりだった彼は、鬼の親玉に「丈夫な身体をあげよう」と誘われ、鬼になりました。人間を食い殺す鬼になった彼に、両親は嘆き悲しみます。そして、その罪を背負って一緒に死のうとするのです。両親にとっても苦渋の決断だったのでしょう。しかし逆に、鬼の彼に殺されてしまいます。

両親を殺した後、彼はその思いに気がつきました。親の思いを、つながりを、逆に断ち切ってしまった罪に悲しみ戸惑うのですが、鬼の親玉の「お前は、悪くない」という一言にすがりつきます。なぜなら、自分の犯してしまった罪に耐えられないから。けれども、もう虚しさの中でしか生きられなくなってしまったのです。

その彼が死ぬ時に、思いました。「こんな僕は、もう地獄に行くしかない。父さんと母さんと同じところには行けないよね」と。そんな時、響いてきた言葉がありました。

「そんなことはない。一緒に行くよ。地獄でも」お父さんの声でした。
「どこまでも、一緒よ」お母さんの声でした。
その声を聞いて、彼は人間の心を取り戻します。
「ごめんね。僕が悪かったよ」と素直に涙をこぼしながら、死んでいくのです。

お前が地獄に往くのなら、私も一緒に往こう。それはまさに、阿弥陀様の願いそのものだと思いました。阿弥陀様の本願は、「あなたが仏に成らなかったら、私も仏になりません。あなたが地獄に堕ちるなら、私も共に地獄に堕ちよう」という願いだからです。縁に触れれば何をしでかすかわからない私を、そこまで思い、願い続けていてくださる。そんな願いに包まれている私たちであることを、親鸞聖人は教えてくださったのです。






作家の五木寛之さんは、「親鸞聖人や蓮如上人の本を書かれていますが、どうしてですか?」という質問に対して、こう答えられました。

「私は、終戦後朝鮮半島から逃げてきました。その時に、とても言えないようなことをたくさんしてきた。良い人は、生き残れない。悪人しか生き残ることができないような経験をしてきた。私の手は、汚れている。そんな思いが、いつもあった。でも、親鸞という人に出遇って、この私も生きられるのかもしれない、生きていいのかもしれないと感じた」と。

 どんな私をも、見捨てず、否定せず、摂め取って捨てないと願われる世界がある。「あなたが地獄に往くのなら、共に地獄に往こう」と誓われ、寄り添ってくださる方があるのです。そんな阿弥陀様の世界に包まれ、「阿弥陀様を悲しませるような生き方をしてはいけない」と人生を歩まれた方々の歴史を、今こそ取り戻さなくてはならない。

『鬼滅の刃』の大ヒットを通して、そう強く思っています。■