2021(令和3)年6月号








  今年は東日本大震災が起きて十年目という節目の年になります。
 では、震災が起きた2011年の「今年一年をあらわす漢字」が、「絆」だったことを覚えておられるでしょうか。人と人のつながりの大切さが叫ばれ、同じマンションに住みながら顔も知らなかった人たちが、食べ物や飲み水を分け合い、助け合う姿もありました。
 ところが、今はどうでしょう。「人に迷惑をかける者は、生産性のない者は、生きる資格がない」といわんばかりの論調が広がっています。「絆」の大切さは、一体どこに行ってしまったのでしょう。私たちは、どんなに衝撃的な経験をしても、それを通して大切なことを知らされても、いつの間にか忘れてしまうのですね。そう考えると、節目があるということは、とても有り難いことだと思います。節目があるからこそ、立ち止まり、振り返り、噛みしめることができる。忘れていた大切なことを、思い出すことができるのですから。


  実は、法事も一つの大切な節目なのです。阿弥陀様の前で手を合わせ、亡き人の想い出を通しながら自分の人生を振り返る。つながりの中で、生かされていることを知ること。独りで生きているのではないことに気づくこと。どれだけのものを与えられていたのか、どんな思いや願いの中で育てられてきたのかを味わうこと。そして、また会える世界が用意されていると知ること。それが法事なのです。
  ところがコロナ禍により、みんなが集まって法事を勤めることが、難しくなっています。特に、都会は感染が拡大していますから、県外から帰ってくるということ自体が厳しい状況にあります。


  昔は、「法事は、命日よりも早く勤めなくてはならない」と言われていました。しかし、コロナ禍の中、またライフスタイルが変わった昨今は、その原則を守ることがなかなかできません (特に、土日に法事が集中するようになったことで、日程確保がままならないこともあります)。
  そこで、私が常々言っているのが、「集まれる日が、一番良い日と考えてください」ということです。少しでも多くの有縁の方が集まる方が、命日から遅れるよりも大切なのではないでしょうか。


 コロナ禍がいつ終息するのか、先は見えません。このような状況ですから、ご家族だけで勤めるのも結構です。「せっかくだから、皆で集まって勤めたい」と、一年二年遅れてもかまいません。どうか、気になさらないでください。法事という節目をいただくことこそが、最も大切なことなのです。■