さて、日本における今年一番の衝撃的な事件といえば、やはり安倍晋三元首相が銃撃され、亡くなられたことではないでしょうか。現行犯逮捕された容疑者が、事件の動機を「母親がのめり込んだ宗教団体によって家族が崩壊した。この団体を国内で広めたのは安倍さんだ」と供述したことから、自民党と元統一教会の関係が明らかになりました。安倍さんがこのような形で亡くなられたことは、本当に悲しいことだと思います。同時に、事件を起こした彼が追い込まれた背景も、また深刻な問題だと思います。
オウム真理教の時もそうでしたが、宗教が絡んだ事件が起こる度に「宗教は怖い」と宗教離れが進みます。しかし、それは逆効果だと言われるのは、同志社大学教授で牧師の小原克博先生です。
小原先生の指摘によると、フランスではカルト宗教の犠牲者がとても多かったそうです。一方、お隣のドイツはそれほどでもありませんでした。では、どこに違いがあったのか。フランスは厳格な政教分離のもとに、公教育からも宗教教育を排除しました。まさに、戦後日本とよく似た状況です。ところがそうなると、宗教に対するアンテナが働かなくなり、何が大切なものか、何が怪しいものかがわからなくなった。そこで、簡単に騙される人が続出したのです。ではドイツはどうかというと、基本法によって宗教教育が命じられていて、伝統的な宗教を学ぶ場がありました。そのことが、カルト的なものへの防波堤になったという指摘です。(『問われる宗教とカルト=x(NHK ETV こころの時代))
実は、宗教的要素と人間の営みは切り離せないものなのです。私たちの生活の中に、宗教的な要素は生きています。それは弔いや死者との向き合い方だけではなく、ゲームやアニメ、文化や社会構造、私たちの行動や考え方にも影響が及んでいます。そしてそれが、精神的な豊かさや、苦難の人生を生きていく力にもなっています。自覚はなくても「宗教とは関係がない」とは、誰も言い切れないのです。
よく、「宗教は、弱い人間がすがるものだ」という人がいますが、人間は本来弱いものでしょう。いつも強くはいられません。自分や身近にトラブルや不幸なことが起これば、揺れ動きます。そんな時、「罰が当たった」「先祖のタタリ」と、原因を宗教的なものに求める人はたくさんいます。そんな不安につけ込み、煽り、人を操ろうとするケースもあるのです。日頃から自覚的に宗教に接していれば、耐性もできますし相談するお寺や教会もあるのでしょうが、「無宗教」を自称してアンテナが鈍くなった人ほど脆い。まさに今回の銃撃事件の背景にも、通じることだと思います。
モチロン伝統的な宗教も、何度も過ちを犯してきました。同時に、過ちに向き合ってきた歴史もあります。私たちの生活は宗教と切り離せないのですから、長年の風雪に耐えた伝統的宗教とその「過ちの歴史」をベースに、日常生活の宗教的なものへのアンテナを磨くしかありません。とは言っても、みんながみんな、これから専門的に宗教を学ぶというのは困難でしょう。せめて宗教を身近に感じ、信頼し相談できる宗教者と接していくことが重要だと思います。
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