2022(令和4)年12月号 







  今年もいろんなことがありました。コロナ禍も三年目となり、「いつになれば、終息するのか」とぼやく毎日です。でも、終息のために日々ご苦労されている方がおられることを忘れてはいけないと、自分に言い聞かせている毎日でもあります。


 ところで私は最近、「正義って怖い」と思うようになりました。今年二月に始まったロシアのウクライナ侵攻で、それを痛切に感じています。ささやかでもかけがえのない日常を、まさに平和を破壊する行為を、ロシアのプーチン大統領は「平和維持活動だ」と主張しました。呆れて言葉もありませんが、歴史を振り返れば、どんな国も「平和のために」「防衛のために」と正義を主張して戦争を行ってきたのです。何より正義って、立場によって違うんですよね。プーチンさんも、彼なりの正義に立っているのです。それが違う立場から見れば、どんなに理不尽なものだとしても。

それは、私たちの身近なことにも言えるでしょう。インターネットやSNSで、不祥事を起こした人に過剰な攻撃をする「炎上」という現象は、その典型です。相手の思いや事情は考えない。「許せない!」と正義の怒りがエスカレートするほどに、「死ね」「殺す」という言葉が書き込まれていく。正義を掲げれば、何でも許されると思い込む。人を傷つけても気づかず、逆に被害者意識さえ振りかざす。実際に多くの人が、その書き込みで亡くなっているのに…。「私は正しい」と思うほど、「悪」と認識する人に平気で残酷なことができるのです。

ある方が、「『正』という漢字は、『一回止まる』と書く」と言われていましたが、立ち止まり振り返ることは、本当に大切なことだと思います。立ち止まることを忘れた正義って恐ろしい…。「正義」とは、やはり取り扱い注意のシロモノ。緊張感を持って向き合わねばなりません。


 








 

さて、日本における今年一番の衝撃的な事件といえば、やはり安倍晋三元首相が銃撃され、亡くなられたことではないでしょうか。現行犯逮捕された容疑者が、事件の動機を「母親がのめり込んだ宗教団体によって家族が崩壊した。この団体を国内で広めたのは安倍さんだ」と供述したことから、自民党と元統一教会の関係が明らかになりました。安倍さんがこのような形で亡くなられたことは、本当に悲しいことだと思います。同時に、事件を起こした彼が追い込まれた背景も、また深刻な問題だと思います。

オウム真理教の時もそうでしたが、宗教が絡んだ事件が起こる度に「宗教は怖い」と宗教離れが進みます。しかし、それは逆効果だと言われるのは、同志社大学教授で牧師の小原克博先生です。

小原先生の指摘によると、フランスではカルト宗教の犠牲者がとても多かったそうです。一方、お隣のドイツはそれほどでもありませんでした。では、どこに違いがあったのか。フランスは厳格な政教分離のもとに、公教育からも宗教教育を排除しました。まさに、戦後日本とよく似た状況です。ところがそうなると、宗教に対するアンテナが働かなくなり、何が大切なものか、何が怪しいものかがわからなくなった。そこで、簡単に騙される人が続出したのです。ではドイツはどうかというと、基本法によって宗教教育が命じられていて、伝統的な宗教を学ぶ場がありました。そのことが、カルト的なものへの防波堤になったという指摘です。(『問われる宗教とカルト=x(NHK ETV こころの時代))

実は、宗教的要素と人間の営みは切り離せないものなのです。私たちの生活の中に、宗教的な要素は生きています。それは弔いや死者との向き合い方だけではなく、ゲームやアニメ、文化や社会構造、私たちの行動や考え方にも影響が及んでいます。そしてそれが、精神的な豊かさや、苦難の人生を生きていく力にもなっています。自覚はなくても「宗教とは関係がない」とは、誰も言い切れないのです。

よく、「宗教は、弱い人間がすがるものだ」という人がいますが、人間は本来弱いものでしょう。いつも強くはいられません。自分や身近にトラブルや不幸なことが起これば、揺れ動きます。そんな時、「罰が当たった」「先祖のタタリ」と、原因を宗教的なものに求める人はたくさんいます。そんな不安につけ込み、煽り、人を操ろうとするケースもあるのです。日頃から自覚的に宗教に接していれば、耐性もできますし相談するお寺や教会もあるのでしょうが、「無宗教」を自称してアンテナが鈍くなった人ほど脆い。まさに今回の銃撃事件の背景にも、通じることだと思います。

モチロン伝統的な宗教も、何度も過ちを犯してきました。同時に、過ちに向き合ってきた歴史もあります。私たちの生活は宗教と切り離せないのですから、長年の風雪に耐えた伝統的宗教とその「過ちの歴史」をベースに、日常生活の宗教的なものへのアンテナを磨くしかありません。とは言っても、みんながみんな、これから専門的に宗教を学ぶというのは困難でしょう。せめて宗教を身近に感じ、信頼し相談できる宗教者と接していくことが重要だと思います。


 















宗教には、人を救うほどの大きな力があります。しかし大きな力は違う方向に行けば、人を傷つけ時には殺したりということにもなりかねません。だからこそ、安易に取り扱うのは危険です。その為にも宗教の教義には、ブレーキが用意されています。きちんとした手順を追わず、都合の良いところだけを利用するような向き合い方では、ブレーキが効かなくなる可能性がありますから、緊張感を持ち、謙虚に畏敬の念を持って接していかなくてはなりません。それは、私たち宗教者についても同様です。

そんな緊張感を持つこともなく、安易に宗教の力を利用しようとすると、必ずトラブルは起こります。特に政治権力が絡むと、規模は大きく、傷跡は長く残ります。古今東西の権力者は、宗教の大きな力を利用しようと試みてきました。なにせ、宗教的な価値観と政治目的を重ね合わせれば、容易に人々をコントロールできる。お国のために命を捧げる人を生み出せる。そのことが、数々の悲劇を生み出しました。宗教と政治の関係も、やはり緊張した関係が必要なのです。

人間の営みには必ず宗教的要素が入っていますから、「宗教は政治に関わってはいけない」と言うのはムリな話です。逆もまたしかりで、人間の営みには必ず政治的要素が入っていますから、「政治は宗教に関わってはいけない」というのもムリな話。だからこそ、おかしな方向に行かないよう取り扱いに注意すること、同時に宗教や政治を身近なものにすることが重要です。遠ざける程に耐性がなくなり緊張感が薄れ、安易に利用しようとして過ちを繰り返してしまいます。

「宗教は怖い」と言いますが、本当に怖いのは、大きな力を安易に利用しようとする私たち人間の方だと思います。そのことを、一回立ち止まり自覚すべきではないでしょうか。

 



 






 

世界陸上の400mハードルで、アジア人初のメダリストになった為末大さんの座右の銘は、「危険であることを認識しているうちは安全である」という言葉だそうです。陸上競技のスタートの合図をするピストルには、少量の火薬を詰めた雷管というものが使われます。少しの火薬でもひとまとめにしておくと、やはり危ない。その雷管をまとめた箱に書いてあったのが、この言葉です。危険だと思うから注意する。緊張感を持って取り扱う。だから、危険だと思っている間は安全だけれども、気を抜いて大丈夫だと思った時に、危険は訪れる。それは、火薬の危なさだけではなく、それを扱う人間の危うさをこそ指摘しているのでしょう。

これは、「宗教」や「正義」の向き合い方にも通じることだと思います。ただ、元統一教会を叩くマスコミは、宗教に対する緊張感もなく、人間の怖ろしさへの自覚もなしに正義を振りかざしています。そのことにまた怖ろしさを感じるのは、私だけなのでしょうか。一回立ち止まった方が、良いのでは…。

 

実は私、とても正義感が強く、おまけに宗教者の末席に名を連ねているという、一番危うさを抱えるタイプの人間なのです。だからこそ、危険であることを認識し、立ち止まり振り返ることを心掛けなくてはなりません。今年一年を振り返りながら、改めて緊張感を持たねばならないと、自らに言い聞かせている毎日です。■